SIDE:HARUKA
やってしまいました……と今日一日の出来事を振り返って落ち込む。
ここはシャイニング事務所にある会議室の一つだ。
会議室を借りて、クライアントの方とミーティングをすることがこのところ増えているけれど、そのどれもが上手くいっているとは思えない。
最後の打ち合わせも、何だか上手くいかなかったな。
いつもだったらもっと上手くいくのに、どうしてこんなに上手くいかないのだろう……。
気分が落ち込んでくると、彼の顔や、声がどうしても聞きたくなる。
(音也くんは……遠くまでロケにいくから暫く帰れないっていってたな……)
最近は泊まり込みで、様々な場所にロケにいくことが増えたから連絡を取る機会が減っているのはわかっていた。
昔はこんなふうに落ち込んでいると、なぜか音也くんはすぐに声をかけてくれて、悩ませるもの全部をやっつけてくれてたな、なんてそんなことを思う。
そんなふうに音也くんのことを思い出すたびに、いつまでも甘えてるなと考えてしまう。
しっかり仕事に取り組んでいる音也くんと比べて、弱音を吐きそうになっている自分が情けなくて困ってしまうなと、そろそろ使っていた会議室も満了時間だし出ていかなければと片付けを終えて立ち上がったところで、扉のノック音が響いた。
「えっと、あの、どうぞ」
ノック音だけで、声はしなかった。
だからこそ入室を促したのだけれど、扉のむこうで「あ、じゃあ入っていい?」と弾むような声が聞こえて、わたしはすぐに「音也くんっ?」と名前を呼んでしまった。
「はーい」
そうでーすというように返事をしつつ、音也くんはいつものキャップに黒縁のメガネ、最近お気に入りでよく着ているパーカーといつもの姿を見せてくれた。
久しぶりに直接会うのもそうだけれど、会えると思っていなかったのに会えてしまったことがあまりにも嬉しくて、彼のそばへと思わず駆け寄ってしまう。
「音也くんです……、本物だ……」
はあ、本物です。
最近はテレビのむこうでしか見ることができなかった、音也くんです。
「え? うん、本物の音也だよ~」
何を言ってるのという様子で音也くんは笑った。
それで、春歌はどうだろう? 本物かなあと音也くんがわたしのことを抱き寄せる。
ぎゅうっと音也くんの大きな身体に包まれて、いつもの音也くんの……香水とか、そうしたふわっとした香りもするけれど、彼自身を感じさせる、とてもいい匂いがした。
「んー……これは……」
「どどど、どうでしょうか……」
本物かどうかを確かめているかのように、音也くんはぎゅっぎゅっと何度も何度も抱きしめてくれた。
抱きしめられた結果、偽者だったなんて言われたらどうしよう。
どうやってわたしがわたしであることを証明しよう? なぜかそんな不安に襲われながらも必死に彼の背中にしがみつく。
しばらくそうして二人で抱きしめあったけれど、なぜか中々答えは出ないようだ。
「本物かどうか確かめるには、一緒にいないと無理かもな~……」
うん、絶対そうと音也くんもわたしの背中に手をぐっと伸ばして、着ていたブラウスの布地を手繰り寄せるようにしているのがわかる。
「……一緒……」
離れていた時間、そして距離があったという二人の間での共通認識があるから、一緒にいないと無理という気持ちが痛いほどわかる。
「音也くん、ロケはまだまだ続くって聞いてました。お仕事は大丈夫ですか?」
「へーきへーき。色々あってバラシになっちゃって、スタッフさんとの打ち合わせがてら事務所まで戻ってきたんだけれど、春歌がいるって聞いてさ」
事務所での用事が終わったら寮に帰るつもりだったから春歌の部屋に真っ先にいこうとしたけれど、それよりも前に会えるかもって思ったら、つい会議室の部屋をノックしちゃったんだよね、と音也くんは少し照れくさそうに微笑んでいた。
「それでー、これは春歌へのお土産」
音也くんが手にしていた紙袋の手提げ部分を引き上げて、会議室の大きな机に乗せる。
あれ、もしかして、とその紙袋に書かれていたロゴマークに覚えがあって、またしても音也くんを見つめてしまう。
「どうして……あれ、わたし。これ……あれれ? 音也くんにお話したっけ」
「ふふふ。春歌はさ、欲しいものとか、興味があるんだろうなーっていうのがすぐわかるんだよね。子供みたいに目がキラキラするからすごくわかりやすい!」
紙袋には、とある洋菓子屋さんのロゴマークが入っていた。
このロゴマークが書かれているということは、紙袋の中身は、とても気に入っているあのお菓子に違いない。
「ロケ地とは違う場所なんだけど、借りた自転車だったら店まで走っていけそうだったから行ってきたんだよねー」
「すごい……。わたし、また食べたいって思ってたんです!」
「これ食べてる時の春歌、また食べたいなぁって表情してたもんね」
だから絶対にまた買ってこよう! って思ってたんだけれど、こんなに喜んでくれると思わなかったなと音也くんも嬉しそうに笑っている。
「同じお店で、いちごジャム作ってるんだって。これが超おいしくて。こう……ジャムってぺたぺた塗るイメージだったんだけど、これはフルーツソースみたいな感じで」
バターをたっぷり塗って焼いたトーストに染みるようにかけると本当に美味いんだってば! と自分でも買って食べてみて感動したからこれも買ってきたと可愛らしいジャム瓶も見せてもらった。
また色々ともらってしまった……と考えつつも、一番はやっぱり、会いたいなと思った時に会いにきてくれるところに驚いてしまった。
こんなことってあるのかな、あるのだろうなということが彼と恋人同士になってから不思議な体験が増えていく。
お土産は俺が一緒に持っていくよと一度は渡された紙袋をまた音也くんが持ってくれた。
ありがとう、と伝えると音也くんはわたしの表情を覗き込む。
なんだろう、と思って恥ずかしくて視線を逸らすと、逸らした視線の先に入りたいというように音也くんも近づいてくる。
こういう時は、なんだかやっぱり犬さんみたいだなと思ってしまいます。
「春歌、仕事の調子あんまり出てないんじゃない?」
わたしの様子を観察してから、音也くんは思いもよらぬことを口にした。
「ななな、なぜそれを?」
「調子が良い時は俺が聞かなくても自分からたっくさん話してくれるのに、ダメな時は春歌、黙っちゃうからさ」
「……たしかに、言われてみればそうかも……」
自分で考えたこともない自分の特徴を音也くんに教えてもらって気付いた。
二人の間で続けていたスマートフォン上でのメッセージでは、確かに仕事の話は彼にほとんどしていなかった。無意識にそうしていた。
そういうところを彼はちゃんと見ている。
「それで、そろそろ俺に会いたいんじゃないかなーって。なーんてね!」
どう? あたり? と笑う音也くんを見て「……はあ……音也くん、すごい。わたし、音也くんに会いたかったんです……」と、あえて伝えまいとしていた本音が彼の笑顔によって唐突に引きずり出されてしまった。
本当は会いたいっていったら迷惑かけちゃうかなと思って伝えまいとしていたのに、口の中から会いたかったという言葉があまりにも自然にあふれていってしまった。
「いや、ほら、あの、俺が春歌に会いたかったから会いにきたっていうか」
突然動揺してしどろもどろになってしまう音也くんに否定されて「ううん、わたし。音也くんに会いたかったです」とはっきりとそう伝えた。
会いたいなと思った時に会いにきてくれて、また食べたいなと思っていたお菓子もくれて、音也くんは叶えたいことばかりを本当に叶えてくれる。
それがとても嬉しくて、会いたかったっていう気持ちをそのまま伝えたくなってしまった。
すると、音也くんの方が「なんだか照れるな~……」といつもなら堂々としているのに珍しく動揺していて、なんだか可愛らしかった。
「とにかく、春歌も打ち合わせ終わりだろうし、俺も仕事は今日はもうないし。一緒に帰ろう」
「あ、あ、うん」
一緒に帰るということは、おそらくわたしの部屋に音也くんが遊びにきてくれる……。
部屋の様子はどうだったかな。このところ、忙しいのもそうだけれど、作曲にのめりこんでいるときはリビングも大変なことになってしまう。そんな状況はさすがに音也くんには見せられないと内心慌てていると音也くんは「今日は俺の部屋においでよ」と誘ってくれた。
「音也くんの部屋にですか?」
「うん。最近、春歌の部屋にばかりお邪魔してるし。たまには俺の部屋はどう?」
「お邪魔してもよいのなら」
「もちろん! 少し前に部屋の掃除をしたから安心してね」
音也くんのお部屋にお邪魔する時は、片付けをお手伝いすることが多い。さすがにそういう出来事が続いて「次はちゃんと掃除しておくから~!」と慌てていた音也くんのことを思い出した。
お仕事が忙しいはずなのに、ちゃんと宣言した通りにお部屋の掃除をしていて偉いなあ。
それじゃ行こうと促されて、二人で事務所を後にして、寮にある音也くんの部屋に戻ってきてからは、久しぶりに訪れるのんびりとした時間だった。
音也くんは自分の部屋に招待してくれているということもあってか、喉乾いてない? お腹すいてない? と色んなことを確認してくれた。
二人が事務所の会議室で出会ったのは夕食を取るにはもう遅い時間だった。
夕方頃に軽食を取ってはいたけれど、それから何も口にはしていなかったから少しお腹が空いていると伝えたら音也くんが最近買った炊飯器に早炊き機能がついてるから、それでごはん炊いてもいい? と突然確認された。
うん、と頷くと音也くんが「あっ」と何かに気づいたかのように慌てている。
「でも、おかずがない。あ~……じゃあ、ええっと、おにぎりとかでいいかな?」
「おにぎり!」
「まあ、俺がおにぎり食べたいからっていうのもあるけど……」
「あ、じゃあ、わたしが……」
いつものように準備をしようと立ち上がると音也くんに両肩をなぜか、がしっとつかまれて、そのまま座っていたソファへと押し戻されてしまった。
「いやいや、俺が作るから! 春歌はそこで、ゆっくりしててくれたらいいから!」
「でも……」
「今夜の春歌は俺の部屋に遊びにきてくれてるんだから、俺が春歌をおもてなしするんだ。そこでちょーっと待っててね」
アイドルさながらの決めポーズを繰り出されると、うっと胸が詰まって動けなくなってしまう。
その隙に音也くんはキッチンに引っ込んで、ごはんの準備をはじめてくれた。
そして炊飯器の準備ができて、ごはんが炊けるまでの間は二人でしばらくここ最近の近況報告をしつつも出来上がりを待つ。
やがてごはんの炊けるいい匂いが部屋に漂ってきて、そろそろ炊けたはずだ! と音也くんがキッチンで準備をはじめてくれたようだった。
しばらくして、おにぎりだけじゃ淋しいだろうから、とだし巻きたまごも焼いてくれて、おにぎりと一緒にどうぞと音也くんがお皿に乗せて二人分、食卓まで運んできてくれた。
「わぁ。すごくおいしそう」
「おにぎりの具はね〜、お土産でもらった御当地の佃煮みたいなやついれてみた。あとはシンプルな塩味のおにぎりだけど、この塩がおいしいんだってセシルに教えてもらってさ~」
海苔はマサからもらったやつだから間違いないね、と頷く音也くんを眺めていると、食べてと勧められて「いただきます」と一礼してから彼の握ってくれたおにぎりを口にする。
「おいしい。お米がぎゅっと詰まってて、ふわっと口の中でほぐれます。ほんのりしょっぱい具と、パリパリの海苔がよく合ってます」
「ほんとっ? 俺も食べようっと」
こっちは俺用~と音也くんが持ってきたお皿に乗っていたおにぎりの大きさをみて、つい笑ってしまった。
わたしのおにぎりの何倍も大きくて、こんな大きいのを食べるの? と気になってしまったからだ。
「春歌、なんで笑ってるの」
「だって、おにぎりすごく大きいです」
「あ、春歌のもこれくらい大きいのがよかった?」
「ううん、わたしはこれで十分だけど。音也くんはこんなに大きいおにぎりを食べるんだね」
「食べるよ、もりもり食べるよ? 正直、これだけで足りるかなぁなんて心配になっちゃってる……」
実はもう、炊飯器の中身が空っぽなんだよねと音也くんはすでにがっかりしている。
こんなに大きいおにぎりを2つ食べても足りないかも知れないと音也くんの表情があまりにも悲しげげだったから、自分のお皿に乗っていたもう一つのおにぎりをどうぞとお皿に乗せてあげると音也くんは「あわわ!」と慌て始めた。
「それは春歌のだから! ごめん、欲しそうな表情してた?」
「うーん、お腹が空いてそうだなっていう表情してました」
「それはそうなんだけどさ~」
えへへー、その通りですと音也くんは自分の頬を指先で撫でる。
差し出したおにぎりを目で追いながら「それは春歌のために握ったおにぎりだから、春歌が食べて」と大丈夫だよと遠慮されて、でも確かに、このおにぎりはわたしのために音也くんが握ってくれたんだなと思うと、その気持ちがすごく嬉しかった。
お店で見るようなおにぎりとは違ったけれど、一生懸命さが伝わってくる可愛らしい形をしたおにぎり。
いただきますとあらためて宣言して、塩味のおにぎりも頂く。
口に運んですぐ、ただしょっぱいだけじゃなくて、なぜか甘みも感じた。お米一粒一粒に味が乗っていて、とってもおいしい。
そうした感想を伝えると、音也くんは得意げな様子で腕を組む。
「おいしくなあれってぎゅっぎゅって俺の愛をたっくさん込めたからね。あ、もちろん手袋はしたよ」
衛生面については普段事務所から色々と言われているからと音也くんは人一倍、敏感に気遣ってくれていた。
おにぎりと一緒にたまご焼きもどうぞとおすすめされて、少し焦げが残ってるだし巻きたまごもいただく。
「たまご、ふわふわです。おにぎりに合いますね」
「うんうんっ。てかごめんね、俺んち、米と卵しか残ってなくてさ……」
「こんなに準備してくれて嬉しいです」
音也くんとは一緒にカレーを作ったりと、共同作業で料理をすることはあった。
あとは喜んでくれるからと自分でカレーを準備したり、お弁当を用意してわたしが料理したものを二人で食べることが多かったけれど、音也くん一人でこうした夜食を用意してくれたのは初めてだ。
簡素だったかもしれないけれど、ここ数日仕事がうまくいかなくて悩んで、食事も楽しめていなかった自分にとって、作ってもらって一緒に食べる食事はこんなにも美味しくて、何より楽しいんだなと思い出させてくれた。
二人でおにぎりを食べ終えてごちそうさまと声をかけあって、その後はデザートに音也くんが買ってきてくれたお菓子を二人でつまむ。
このお菓子はロケ先で音也くんがお土産にどうぞ、と買ってきてくれて、初めて食べたものだった。
また食べたいなと思ってはいたけれど、現地に行かないと買えないタイプの御当地のお菓子だ。
また食べたいから買ってきて欲しいですなんて言えるわけもなかったのに、また食べたいっていう密やかな気持ちすら音也くんにはお見通しだったことにあらためて驚いてしまった。
デザートの後はお茶を飲みつつソファに座りながらゆっくりとした時間を二人で過ごす。
お風呂が沸きましたという馴染のある声に音也くんが反応して、立ち上がってから別の部屋へ向かってすぐに戻ってきてくれた。
「春歌、お風呂沸いたよ〜。入ってきたら?」
着替えるならジャージをどうぞと戻ってきた音也くんに手渡されて、ありがとうと咄嗟に答えたけれど、そのままなんとなく音也くんのことを見つめてしまう。
「ん? 俺のことそんなに見つめてどうしたの?」
「……あ、いえ」
「ん~?」
言ってごらんというように音也くんに自然に促されると、どうしてもさらっと考えていたことが口から出てしまう。いつも不思議だなと思うけれど、彼の前ではなんとなく素直になれてしまう自分がいるのかもしれない。
「音也くんは一緒に、入らないのかなって……」
素直な疑問だった。
特に深い意味があって聞いたわけではない。
付き合い始めてしばらく経った頃に、音也くんから一緒にお風呂に入りたいと言われて、最初はドキドキしたけれど音也くんから入りたいとお願いされてからはお風呂の時は二人で一緒にがいつの間にか当たり前になっていたから聞いただけだった。
「今日は、ほら、春歌、疲れてるかなぁ~って……」
お風呂ってやっぱり一日の疲れを癒やす場所だろうから、一人になりたい時もあるんじゃないかなと思ってさと今日は一緒に入ろうと誘わなかった理由を教えてもらって、本当に気遣ってくれてるのだなあ……と普段の入ろうよ~と強めに誘ってくれる普段の音也くんの様子を振り返って、ますます感心した。
「……どうしたの春歌、はあ~……みたいに驚いた表情しちゃって」
「だって音也くん、お風呂ですよ」
「?」
「だって音也くん、お風呂はいつも一緒がいいよって」
「そりゃあね。春歌と一緒が俺は大好きだよ」
「……」
「? なに~?」
キラキラとしたお星さまみたいに光る赤い瞳を見る。
さっきまでは、気遣ってくれてるのだなあとただ感心していた自分がいたのに今は違う。
普段は音也くんに誘われてるからそうしてるんですなんていう、そうした建前を作って一緒にお風呂に入っていたはずなのに、いつの間にか音也くんと一緒にいるのに、別々なのは寂しいと感じてしまっている自分がいる。
でも、こんな時にどうしたらいいのかがわからなくて。
音也くんの着ていた服の裾をぎゅって掴みながら、どんな風にこんな気持ちを伝えればいいのかが、わからなくて。
「……一緒には、入らない?」
「へっ」
「あっ、いえ、その、せっかく音也くんが気遣ってくれてるのに、わたし」
「いや、春歌が入りたいなら入るよ!?」
わたしが一緒に音也くんと入りたいなら、入ってくれるんだと素直にそのことだけが頭に浮かんで、「音也くんと一緒に入りたい」と伝えると、音也くんは「うん、入ろう」と受け入れてくれた。
脱衣所で、少し焦りながら準備をする。
もう何回も一緒にお風呂に入ったはずなのに、どうして今更緊張してるのだろう。
わたしが一緒に入ろうって音也くんのことを誘ったから?
……たしかに、わたしの方から一緒に入りたいって誘うことなんてあまりにも大胆すぎて言うことはないだろうって思ってた。
それなのに、なぜか今夜は自然と誘ってしまった。
準備を終えて、まだ物思いに耽っていたわたしの手をとって、音也くんが「行こっか」と浴室に誘ってくれた。
音也くんは強引なところはあるけれど、臆病なわたしのためにできるよって背中を押してくれているんだと思うと、強引なくらいが丁度良いのかも知れないなんて考えてしまう。
そして、こうして手を取ってエスコートしてくれる時の彼は本当に優しい。
「……音也くんと一緒にいると、お姫様になったのかなって思う時があります」
今までのことに、今夜の出来事一つ一つが重なって、なんとなく口から出る。
小さい頃に読んだ絵本に出てくるお姫様。そのお姫様には大好きな王子様がいて、とっても優しくされていたのを覚えている。
「だって、春歌は俺のお姫様だからね。お背中、お流ししましょうか」
おどけた様子で手にしていたタオルを泡まみれにしていた音也くんを見て、いつもだったら遠慮してしまうかもしれないけれど、なんだか今日は甘えてもいいかもなんて思って「お願いします」と頷くと「任されました」と音也くんはタオルを背中に当ててくれた。
次はわたしの番ですとお互いに背中を流し合ってから、二人で湯船に身を任せる。
音也くんに抱きしめてもらっている時、せっかく抱きしめてもらえているのに、どこか身体のすべてを預けるのが申し訳ないなと思って身体を強張らせていたけれど、お風呂に入る時には、このまま身体すべてを預けてもいいのかもと音也くんに背を預けてゆったりとしてしまう。
「あ~……気持ちいい~……」
機嫌がよくなると音也くんはよくお風呂でも歌い出す。よく知っているメロディに、彼がつけてくれた歌詞が混ざり合って、浴室の反響も相まって声がよく伸びる。
本当に歌が好きなんだなってわかる、まっすぐな声。最初に聞いた頃は、荒削りだったところが歌い続けることで変わっていったけれど、一番最初に感じたまっすぐさは変わらない。
「ご機嫌だね~、春歌」
彼の歌声に耳をすませて、自然と身体を揺らしていると、どうしたの〜と後ろから音也くんがぴったりと頬ずりをしてきて、「ひゃ」と驚いてしまった。
そうした反応も構わずにスリスリとされる。
「おおお、おとやくんの歌が……とても素敵だと……」
「そうっ? なんかお風呂で歌うと歌が上手くなった気がするんだよね。今度、ここでレコーディングする?」
「えっ」
音也くんは本当に突拍子もないことを言う。
「たまーにお風呂で録音してるよ。声がよく響くから」
「あ、渡してくれる音源で確かにこうした響きがあるようなのが……」
歌い方はこんな感じでいい? と音也くんは定期的に歌声を録音しては渡してくれて、それを聞いて曲を直すことが多いのだけれど、渡される音源の中に言われてみれば浴室だったのかも? と思える録音が確かにあったなと気づいた。
「あるだろ? あれ大体ここだから」
誰にも話してない、春歌にだけ教える秘密だよと笑う音也くんは「でも、シークレット音源みたいな感じでお風呂verってだしたら面白いかな」なんて真剣に考え始めている。
「……お風呂で歌う音也くんの歌は、ここだけの秘密がいいな……」
そんなことを思って、つい伝えてしまった。
すると音也くんは嬉しそうに笑って「じゃあこれからも、お風呂では春歌だけに歌うね」と耳元で熱っぽく囁いてくれた。
囁かれた耳をなんとなく抑え込むと、普段は冷たく感じる耳たぶすら熱を持っている。
お湯に浸かっているから、こんなに火照りを感じるのか、彼がそばにいることで熱く感じているのか、おそらくどっちも原因なのだろう……と考え込みながら二人で今日一日の疲れを癒やすように「ふぁ……」と優しいため息を重ねるようにして、ついた。

たかさか
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