SIDE:OTOYA
袖をまくってキッチンに入ると、春歌は花びらの形をした髪留めで髪をまとめ上げているのがわかった。いつもと違う髪型も、エプロンをしている彼女も、どれをとってもかわいい。
「わたしが人参を切るので……、音也くんは玉ねぎ切れますか?」
「うん。玉ねぎ切れるよ、大丈夫! 任せて」
普段はそこまで料理をするわけではないけれど、基本的なことはできる。カレーは自分一人のときだって作ったことあるから工程もわかるし、安心感があった。
春歌はお米を研いで炊飯器にセットしてから、人参に取り掛かっていた。
俺も玉ねぎを切っていくけど、やっぱり目にしみてくる。くぅぅ。
「だ、大丈夫ですか? 涙が……」
「うぅっ。やっぱり沁みるね、玉ねぎ。眼鏡でもしようかな……」
気休め程度にしかならないことはわかっているけど、いつもすぐに変装できるように胸ポッケにいれていた眼鏡をかけてからもう一度玉ねぎに挑戦する。
自分は料理が得意なわけではないから、そこまで手際がよいわけではない。
その隣で慣れた様子でリズミカルに隣で春歌が人参を切っているのを見ていると「なんかピアノ弾いてるみたいだね~」とふとした感想が口に出てしまう。
「そうですか?」
「うん。あ、新曲! あとでもう一回聞かせてくれる?」
「はい、それはもちろん」
具材が切揃って、鍋底に油を敷いて炒めていく。それから水を注いで煮込みの工程に入っていき、お鍋の蓋が閉められた。
「カレー、カレー……、カレーっと!」
「ルーはどれにしますか? 実は二種類買ってきていて……いつものやつと、ちょっと辛いやつ」
「辛いのは春歌平気?」
「そこまで辛くないかなーと思って買ってきているので大丈夫だと思います」
「ルー、混ぜてみるのはどう?」
「大丈夫かな? おいしいかな?」
「おいしいルーとおいしいルーでしょ? おいしいとおいしいが合わさったらおいしいに違いないよ! それにカレーだからきっと大丈夫。うん」
謎の自信に満ちた俺の答えに、春歌も、たしかにカレーならおいしいはずですよね、と煮立った鍋の火を止め、それぞれのルーを半分ずつ割り入れた。
「前にカレー作ってたときに、つい火強くしすぎて焦がしちゃってさぁ」
「あ……、わたしも以前に火にかけすぎたことあります……」
「お互いに気をつけなくちゃだね」
「そうですね~……」
あと暫くまた煮込む時間が残っていた。春歌は付け合せのサラダも用意しますが、すぐなので、音也くんは食卓の用意をしていただけると、とお願いをされる。
食器棚に入っていたカレー皿やスプーン、それに食卓の上のテーブル拭きを行ってすぐに食べれる準備する。
あぁやっぱりワクワクする。それにカレーの匂いは様々な思い出がある。
でも、もう思い出すだけの思い出だけではなくて、こうして新たに春歌といろんなことを経験することで、俺の大好きなカレーの思い出は、どんどん新しい思い出が重なっていく。
すり替わるのでも、上書きされるのでもなく。素敵な思い出がひとつひとつ増えていく。
一緒に作ったことで倍以上おいしくなった気がするカレーの匂いにつられて、俺は「もう出来たかな」とまたキッチンに入っていった。
春歌がミトンをつけて鍋の蓋をあげた瞬間に慌てて俺も「わぁっ」と覗き込んだものだから、お互いの頬が触れ合ってしまう。
「うわごめん。ぶつかっちゃった?」
「い、いえ……」
「えへへ、二人で作ったカレーすぐに見たくなっちゃって」
「お腹すいちゃいましたよね。早くよそって食べましょう!」
「うん!」
その意見に同意して、俺はお皿を取りに行って、春歌の分と自分の分の炊きたての白いごはんをたくさんよそう。
ご飯多めも好きだけど、やっぱりご飯よりもルーは多めのほうがカレーのときはいいよなーと思って山盛りのご飯にルーを山盛りにかけると、それはそれはとんでもない量になってしまった。
「あ。ごめん、俺の量にあわせて春歌のもよそっちゃった……多かったら俺が食べるからね」
「音也くん、そ、そんなに食べれるの?」
「もちろんだよ。カレーってなんかおかわりできちゃうよねぇ。よし、だいたい準備できたと」
「ではいただきましょう。随分お時間いただいてしまってすみませんでした」
「ううん、二人で作れただけで嬉しいよ。じゃ、いただきまーす!」
ようやく食べることができるようになって、俺は味わうように、かきこむようにスプーンでカレーをすくっては流し込むように食べていく。
カレーはおいしいはずだけど、こんなにもおいしかったっけかなぁと思うくらいに沁みるくらいにおいしくて、夢中で食べていると、俺のことを見つめたままで、自分のスプーンは動きもしない春歌の様子に気づいた。
「? どうしたの?」
「こんな風においしそうに食べてくれる音也くんを見てると、なんか嬉しくて。一緒にご飯を作るのっていいですね」
「う、うん……」
口に突っ込んでいたスプーンを手から落としそうになって慌てる。
付き合いはじめてから、たくさんのことを知っているつもりだった。恥ずかしそうに笑う表情も、話を聞いてくれたときに無邪気に笑ってくれる表情も、全部全部。
何ひとつ余すことなく知っていっているつもりだったのに、まだ俺の知らない表情を彼女は持っている。
もしかしたら、それはすべて同じ「笑顔」の表情として表現してしまっても構わないようなことなのかもしれない。でも、俺が今日見た彼女の笑顔は昨日までは知らなかった笑顔で、そうした新しい表情をまた一つ知る度に、俺は彼女のことをもっともっと知りたいと望んでしまう。
一分一秒が惜しいくらい君のそばにいて、どれ一つも見逃したくないくらいに側にいたい。
もし俺が一ヶ月君のそばから離れたとして、俺の知らない君が増えていくのが不思議と怖く感じた。
時間は過ぎて、食後の片付けも終わる。夜も更けてきて、そろそろ帰らなくちゃならない時間が近づいているのは知っていた。
それでも今日過ごした時間を過去にすることがなぜか怖くて、惜しくて、「そろそろ帰ろうかな」なんていう言葉が中々出てこない。
重い鉛がまるで喉の奥に押し込められたようになっている。明日また会えるとわかっているから「今日は帰るね」って言葉が言えるのに、今日帰ってしまったら、明日は会えるかもしれないけれど、その数日後は暫く会えないのだという現実がのしかかる。
二人でソファに座って他愛のない話をした。
おいしいルーとおいしいルーをあわせるともっとおいしいカレーができたね、という成果の話をしたり、お互いの共通の友人同士の話、それにこれからのこと。
会話が途切れてしまうことが怖くて必死に話題を探す俺に、応えてくれる彼女。
それでも一瞬だけ会話が途切れて、静まり返った部屋では、彼女の部屋の壁にかかっている時計の秒針が進む音だけがよく聞こえた。
「音也くん」
俺が何も言いたくないから何も言わずにいると、二人で横並びに座っていたソファで、春歌は俺の方を身体ごと向けて、俺の名前を呼んだ。
「春歌……」
そういえばお互いの名前をこうして呼ぶのだって、すっごく恥ずかしかったっけ。
一十木くん、七海、ってお互いの名字で呼んでいた頃のことを思い出しながら、はじめて名前で彼女を呼んだときのことを思い出していく。
「あの。目を。目を閉じてもらえませんか」
「え? 目……? 寝ろってこと?」
すっかり夜遅くなったからこのまま寝ろってことなのかと思ってしまってそんな風に聞き返すと、春歌は吹き出すようにして笑った。
「ソファに座ったままは眠れないですよね?」
「う、うん……そりゃ、そうだけど」
「お願いですから……目を閉じて」
諭すような心地の良い優しい声につられて瞼を閉じる。眠れないですよね、言われたとしても、目の前に彼女がいるという安心感があるからこのままなら眠れそうな気もした。
そんな眠気すら吹っ飛ばすような出来事が、俺を次々に襲う。
彼女の息遣いが近くに感じたときにはもう、その感触が何であるか俺にはわかってしまった。彼女の手が俺の膝あたりに優しく乗って、でも体重をかけながら傾けているのがわかる。
キスされた、とわかった瞬間に俺が目を反射的に開いて、「はるっ」と声をだすと、彼女は慌てたように「目、目、目を閉じてください!」と叱るように小さな声で叫んだ。
最初は左頬。次に右頬。前髪あたりを少しかけてられたかとおもうと次は額に。そんなことを繰り返しているうちにバランスを崩して、俺たちは二人で横になるには狭すぎるソファを背に沈んだ。
下から春歌を見上げる。目があっても、耳元で「閉じて……ください」と囁かれて、さらにまたキスが続いていく。
何が起きているのかがわからなくて、俺は目を閉じている。
「……、二八回目です」
首筋に柔らかなキスを落とされた後に、そんな言葉が降ってきた。
キスした回数? と俺が聞くと、そう、です……と彼女は答えた。
「もしかして一ヶ月分のキス、してくれてるの……?」
詰まるような声で俺が聞くと、春歌も今までとはちょっと違う震えた瞳で瞬きをしながら、小さく頷いて「ごめんなさい」と謝った。
「急にこんなことして……」
「嫌なわけない。嫌なわけないよ」
俺は時々彼女を困らせるようなことを言ってしまう。それは本当に彼女を困らせたいわけではないのは確かなのに、そうしてほしいと願うことが彼女にとってどれだけ重荷であるのか、想像をする前に言葉にしてしまう。
でもそんな俺の言葉に彼女はこうして全力で答えてくれようとする。
何気ない俺の一言だって、ワガママに満ち溢れたどうしようも願いかもしれない。春歌にとって叶えることが難しいことだしても、彼女はこうして俺を満たそうとしてくれるんだ。
「あ~……もぉぉ……キスしてくれてありがとう、大好き……大好きすぎる……」
「あっあの。目……目を閉じていただけませんか?」
「二八回も春歌にキスされちゃったら、俺だってもっとたくさんキスしなくちゃ」
さっきまで言うことを聞いていたはずの俺が目を閉じずに、迫ってくることに春歌はびっくりしている。あぁ大好きだ。唇を挟み込むようにして求める度に、この感触を忘れたくないと願いながらもキスをする。
たった一ヶ月、されど一ヶ月、今こんなキスをしてしまったらもっと離れがたくなってしまうかもしれない。
「一ヶ月分のキスをして」なんてお願いをするんじゃなかったと思うのと、今までになく特別に感じるキスの感覚に、後悔と感謝が心の奥で柔らかく入り混じっていった。
二九回目。
三〇回……、
一ヶ月は多くても三一が限度。頭の中で数えていた残りのキス回数なんて置き去りにして俺は狂ったように彼女とキスを重ねた。
「俺、君が寂しいって言うならすぐに会いにいくから」
「音也くんの気持ちは嬉しいけど……アイドルを頑張ってる音也くんを見れるのがわたしの一番の幸せです」
「そっか。また何考えてるんですかってトキヤとか日向先生に、怒られちゃうし……?」
「社長にも、またきっと怒られます」
こつんと額をぶつけ合って笑う。頭ではお互いに理解しているんだ。でも恋はそんな冷静さを溶かしていくくらいに恐ろしい熱を持ってる。
うなされて、絆されて、自分が自分じゃないみたいに相手のことを強く想う。
「大好きだよ」
俺がそんな言葉をかける度にちょっと頬を赤らめて春歌が微笑む。
「わたしもです、音也くんのことが大好きです」
好き、大好き、愛している。どの言葉が一番お互いにとって誰よりも君のことを想っていることの証明になるのか、わからない。同じ「好き」でも「大好き」でも「愛している」でも重ねていけばいくほど、それが確かになっていってる。
――こんなに近いのに、こんなに遠い。
いつかの日かに形容したあの時よりも、二人の距離は埋まっている気がする。それでも、心はこんなに近くなっても、今度は物理的な距離が俺たちを分け隔てていくのだろう。
ソファの上で抱きしめ合うようにして、俺たちは別れを惜しむようにしてそのまま無理に眠りに落ちていった。

たかさか
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