あなたに見惚れている

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 手にしているのはホテルの鍵と、何かあった時のための小さなポーチ、それにスマートフォンのそれだけだった。

 フロントは二十四時間受付対応をしていて、いつでも出入りはできるようになっていたから、今の時間のことは気にせずに春歌は外に出る。

 散歩といってもこのあたりは歩けるような場所はない。

 どうしようかと悩んでいると、潮の匂いが漂ってきたことに気づいた。

 ホテルの裏手側にあるプライベートビーチには、宿泊者であれば誰でも入れるようになっているという話も聞いていた。

 せっかく海沿いのホテルにきているのに、一度も海を見ていなかったと春歌はせっかくだからと散歩をするのに海辺を歩いてみようと、ビーチの入口から浜辺へと向かう。

 さくさくと砂をかき分けるような音に、履いてきたサンダルが沈んでいく感覚。

 やがてさざ波の音が聞こえてきて、潮の匂いは強くなっていく。

「わぁっ」

 真っ暗だから、何も見えないと思っていたのに。

 空を見てみると、一面に瞬く星が煌めいている。そして眩く、くっきりとした明るい輪郭を見せるのは、月だ。

 朧げな月の明かりが、海に反射して、風の流れに乗ってうねる波を映している。

 さっきまで壁ばかりで圧迫感のあったホテルの部屋とは違う。

 水平線の先は、月の光で満ちている。開放感に溢れていて、どこまでも続いている。

(この海のむこうは、どこまで続いているんだろう)

 泳いではいけないだろうから、船があるならそれに乗って、あぁでも気球みたいなものに乗って、高いところから水平線の先を探してみるのも楽しいかもしれない。

「ねえっ、この海ってどこまで続いてると思う?」

 どこかで聞き覚えのある大きな声がして、春歌は慌てて振り返った。

「一十木くん、声でかいよー。俺たち部屋、戻るから」

「えーっ。なんで帰るんだよ、こんな綺麗なのにさー。モッタイなさすぎ!」

 そこらへんに船もあったなら漕ぎ出しちゃうレベルだね、と笑っている声の主は、紛れもなく名字を呼ばれていたように一十木音也だと春歌は気付いた。

 ……どういうことだろう? 偶然同じホテルに泊まっていたってこと? やりとりからしてお仕事で一緒の人かな。

 邪魔してはいけないですよね、と夜の散歩はここまでにしようと春歌が一歩踏み出したところで「痛っ」と思わず声をあげてしまった。

 なんだろうと屈んでよく見てみると、貝殻の破片が足の指先に食い込んでしまったようだった。

 それでも深い傷ではないし、歩けはするからやっぱり帰ろうと歩き出そうとしたところでバランスを崩して転びそうになる。

「ねぇ君、大丈夫?」

「……はっ」

 いつの間にか、すぐそばに彼がいることに春歌は気付いた。

 転びそうになっている手をとってくれて、慌てて支えてくれたのがわかる。

「こんな夜中にどうしたの? 女の子がひとりじゃ危ないよ」

 風が冷たいかも知れないと防寒のために深く被っていた帽子のせいか、音也は自分が誰なのか正体には気づいていないようだった。

 どどどどうしよう。ひとまずわたしです、七海ですって説明して。ありがとうって声を出そうと思うのに。なぜか言葉が声にならない。

 あの美しい水平線を見た瞬間に一緒に声まで持っていかれてしまったんだろうか。

 何も言わない春歌のことを興味深そうに音也は見つめていたけれど、「君も散歩してたの?」と質問を続けた。

 まだ声がうまく出なくて、(うん)としか頷かない春歌に向けて「そっか! 俺も!」と機嫌がよさそうに笑顔を音也が返す。

「怪我はしてない? ああ、ちょっと痛かったかもだけど、大丈夫そうだね」

 これなら平気かーと屈んで足を見ていた音也に春歌は少しドキドキする。こんな風に素足を見つめられたのは初めてだ。

 そろそろ帰らなければと思うのに、潮風はなぜか名残惜しいという気持ちを伝えてくる。

 音也も足を止めながら海を見ているものだから、その横顔に惹かれるようにしながら同じように海を見る。

「あそこ。ほら、魚がいるように見えないかな」

 音也が急に指さしたのにあわせて春歌も目を凝らしてみる。

 魚が泳いでいるとして、月明かりだけでも見えるものだろうかと考えてしまうけれど、音也が見えるというのなら、何だか見えてしまう気がして、春歌は彼の指差す方向へとひたすらに眼差しを向けた。

 二人で必死に、何も見えない気がする水平線の先を見た。

 彼の指先が波に飲まれて跳ねては消えて、それでもこの先には何かがあるんだというように伝えてくるから、二人で夢中にその先を見つめ続けた。

 はぁっというため息のような、感嘆の声のような、吐息のような声が聞こえた。

「なんか見える気が……したんだけどなあ。おかしいな」

 とても残念そうに視線を返した音也と春歌は目を合わせた。

 先ほどまで、何かを見つけようとして一点に集中していたその瞳は、春歌のことを柔らかく見つめ続けていた。

 暗闇の中でお互いの視線しかわかるものはなかったけれど、音也は「君、俺の知ってる人に似てる」と続けた。

 ただ頷くだけなのに、音也は呆れもせずに小さく見せる反応だけで意思のやりとりを続けてくれて、それ以上は決して求めなかった。

 あっちの方にも何かいるかもしれないと音也が足を動かした瞬間に砂に足をとられたのがわかる。

 転んでしまうと恐れから春歌が彼に向かって手を伸ばした結果、手を繋いだまま二人して背中をしっかりと砂につけて転んでしまったのがわかった。

「は……」

 さっきまで眺めていた地平線とは違う眺めに、春歌はようやく小さな声がでた。

 同じように隣に寝転ぶように仰向けになっている音也へと顔を少し向けて見る。

「あはは! 転んじゃったな……! 大丈夫?」

 尋ねられたことに、春歌が無言で頷くと音也はよかったと笑った。

 そして、迷いのない動きでまっすぐ上の方へと指さした。

「空、すごい綺麗だ。海ばっか見てて気づかなかった」

 音也の言葉と、指先の動きに促されて春歌も夜空を見上げる。そうだ、ここに来て最初に見た空は美しかった。

 それでも、二人で見ていた時には海の美しさに気をとられていた。

「星空を見ると、願い事をしなきゃって思うよね。でも俺、最近、何を願えばいいのかわからなくなっちゃう」

 願うべきことはたくさんあるはずだと音也は思う。

 自分が持つ夢や希望にとどまらない野望にも近いもの、やりたいことは何を成してもどんどん増えていく。だからそのうちの一つを願えばいいのに、昔のようになぜか気楽に決められない。

 一緒に空を見上げていたと思っていたのに、いつの間にか視線を感じ取って春歌は彼を見た。ぱちっと目と目が合って、音也は少し恥ずかしそうに、気まずそうに、それでも嬉しそうに笑った。

「ごめん、なんだか見とれちゃってた」

 やばいやばいと小さくなにかをぼやきながら音也は一気に立ち上がると、春歌に手を差し伸べる。

 その無駄のない一連の動作に流されるように、伸ばされた手をつなぐと音也は強い力で彼女を引き寄せた。

「勢いよく引っ張りすぎちゃった」

 勢いに圧倒されつつも立ち上がった春歌を見て、やりすぎたというような音也の表情を見て、春歌は大丈夫ですと小さく答える。

「一十木くーん、そろそろ打ち合わせはじめるからー!」

 先ほど音也と一緒にいた数名が彼を呼ぶために戻ってきたのだろう。

「わかったー!」

 その大きな声に音也も同じくらいの大きな声で応えてから、「じゃあ俺、行くね」と挨拶はするものの二人でいつの間にか繋いでいた手が離れない。

 別れの挨拶は済んだはずなのに、終わらない正体は繋がれた手だとお互いにわかっていて、その手を見つめ合ったまま静かに時間が流れる。

「あー。なんだか名残惜しいな」

「うん」

 別に何を話したわけでもないのに、もう少し一緒にいたいよねという言葉にならない願望に満たされていたけれど「もう本当に遅いから。部屋に戻った方がいいよ」と音也は何度も伝えた。

 本当は送っていってあげたいと言いたいけれど、それは今の状況ではどうしても出来ない。

 早く来いという呼び掛けに焦りつつ音也は、とにかく夜も遅いから早めに部屋に戻るようにと繰り返した。

 うん、ともう一度頷いた春歌を見て、ほっとしたように音也は「それじゃまたね」と今度こそ、と決意を固めた表情でホテルへと続く砂浜の道を辿っていく。

 その姿が夜に溶けて消えていくのを見て、ああ本当に行ってしまったなと見送ったつもりだった春歌に、大きな声が飛んでくる。

「七海、また連絡するね!」

 あぁ。気づいてたんですね。

 いつから気づいてたのかな、何もわからなかったけれど、一十木くんがお勧めしてくれた夜の散歩はとっても楽しかったな。

 早く帰った方がいいよという音也のアドバイスにも逆らいたくなるくらいに美しい夜空を背にしながら、春歌は最初に来た同じ砂浜を歩く。

 もう見えないはずのあなたの背中に見惚れながら、今夜のことはいつまでも覚えているのだろうとそんなことを頭の片隅で考えていると止まっていたはずのメロディが流れ出した。

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