「春歌はさ~……最近、俺の言うことすることに慣れてきたりしてない?」
「慣れ……いつまでたっても慣れないよ……」
「そう?」
慣れないかあ、と自然に唇を彼女の耳元に寄せると「ひゃあ!」と短い悲鳴が上がった。
「あー、耳は全然慣れないね……春歌、耳弱すぎ」
「ひゃ……うう……」
くんくんと匂いを嗅ぎ分けるように耳元に鼻先を寄せられて、身体を捩る彼女の様子を見ていると本当に変なスイッチ入っちゃいそう……と恍惚な気分に音也もなってくる。
桃のような、なんともいえない果実を思わせるような自然な匂いが鼻腔を刺激して本能を引き出されそうになってしまう。
ドキドキさせたいと行為に及びながら、ドキドキさせられているのは俺の方なんだよなぁ……と彼女の耳の裏や首筋あたりに鼻を押し当てて嗅ぎ続けていると「んんん……」と詰まった彼女のいじらしい声で頭がおかしくなりそうになる。
「もお……音也くん、そんなにたくさん嗅がないで……」
「春歌、お風呂に入ったっていったけど、石鹸以外の匂いもするんだもん」
それが何なのか知りたいと思ってくんくんと何度も鼻を鳴らして嗅いで見るけれど正体はわからない。
きっとこれが春歌の香りってことなのかなーと、音也は身体にすべてを覚えこませようとする。
「そんなに嗅がないで~……」
「だって俺、忘れたくない」
写真に残っていれば、写真を見れば思い出せる。
声だって、動きだって、映像として残していける。
だから、きっと忘れたくないと思って忘れていってしまっても、それらを見ればきっと思い出せる。
でも君の温もりや、この匂いはそうじゃない。俺は自分の中でいつでも取り戻せるように君のことを憶えておきたいんだ。
気持ちをすべて言葉にして伝えなくても伝わったのか、力が入って強張っていた彼女の身体が緩んでいくのが音也にはわかった。
そして同じように自分の首筋を春歌が鼻先でなぞっていくのがわかって、くすぐったくなってしまって音也も「あはは」とつい声をあげてしまう。
やがて、スンスンと小さく遠慮がちに鼻を鳴らす音がする。
「……音也くんの匂いがします」
「俺はお風呂入ってないし、雨に濡れてきたし、臭いと思うんだけど」
濡れ雑巾みたいな匂いしてない? と音也が不安になって聞くと春歌は(そんなことないもん)とぶんぶん首を振った。
「音也くんの匂い、とってもホッとします」
「ホッとする?」
「うん。すごくホッとします。安心するの」
「安心? 安心かぁ……安心ねぇ……」
彼女がくれた言葉を舌の上で転がして、声にして繰り返しつぶやきながら、言葉の意味を音也は考える。
春歌が今みたいに、自分以外の異性に対して心を許している姿は一切想像することができない。
彼女がこの夢を目指すきっかけになったアイドルという存在にだって「アイドルとして」の視点が入っているからなのか、傍から見ていたとしても、どこか一線を引いていたようにも見えていたからだ。
もしかしたら、こうして彼女に安らぎを与えることできるのも、そのすべてを奪って傷つけることができてしまうのも、俺一人だけなのかもしれないなんてことに気づいた瞬間に今までにない快感と罪悪感のようなものが至るところを走っていく。
身体同士の接触や視線に入る性的な刺激とも違う、自分だけに許された特権のようなもののことを考えると心がたまらなく疼いた。
誰かに好かれているという感覚を覚える時、自分の置かれている環境が可哀想だと思いこんでいるから、優しくしてくれているのかもしれないなんて虚しいことを考えることもあった。
この人は本当に「俺」のことが好きなのかな。
足りないものがあるから足してあげたいって思われてるだけなんじゃないのかなって。
アイドルになってそういったものを埋めて欲しいと思う心もあったけれど、彼女に対してただ感じたのは君が欲しい、それだけの感情だった。
そこには打算も計算もなくって、ただ欲しいという欲望だけ。そしてきっと彼女がくれるものも同じだって、なぜかわかる。
今日言おうとしてやめたのは、今は春歌がいる場所に色んなものを忘れていっちゃってるけれど、どうせ忘れていくのなら、二人で一緒にいる場所を作りたいってことを伝えたかった。
もしかしたらうまく伝わらないかもって自分自身もどう伝えればいいかわからなかったら、もう少し考えさせてと、もっと上手にこの気持ちを伝えることができるようになったら言おうと音也は思ったけれど、それはきっと、今よりもっと一緒にいたいっていう気持ちを伝えることになるのだと思う。
こんなに愛してる、こんなにも愛されてるってわかるのに、もっと一緒にいたいってことを伝えるのにどうして緊張してしまうのだろう。
恋をするって不思議だなと音也が考えていると、小さな吐息が首筋から胸元まで吹きかかる。
君も、いつまでも俺の匂いや温もりを憶えていてくれるかな。
なんとなく彼女の小さな手を握る。何も言葉にしないまま「えへへ」と照れくさくなりながら二人で無邪気に笑い合う。
そうした気恥ずかしさをごまかすために、額同士をぴったりとくっつけて、二人きりなのに、隠れるようにこっそりと触れては離れるキスをした。
君の指先と、額から伝う体温でこんなにも優しくなれるから、やっぱりもっと一緒にいたいよってふわふわでもこもこな服と彼女の匂いに包まれながら、そんなことばかりを音也は考えた。
おしまい
(↓補足であとがきを書いています)

たかさか
※コメントは最大500文字、5回まで送信できます