昨日はどんなお話をしたのか、最後の方だけ春歌はボンヤリと覚えていた。
たしかおんぷくんが冒険に出かける話で、山あり谷あり、激流の川を突き進んだり、ふしぎなスライムと出会ったり、途中で仲間たちが増えていき、600匹近くになったところで途切れている。
(そこで寝ちゃったのかな……。記憶がありません)
できれば続きを聞きたくて「音也くんの声がとっても優しくてホッとします」「だからお願い」とお願いすると「しょうがないなー」とニコニコと笑って彼が話を聞かせ続けてくれたのも覚えている。
そうだ。社長が部屋のガラスを粉々に割ってしまったから、避難先として音也くんの部屋に泊まらせてもらっていたのだと、ここまで記憶を取り戻して、そのことを春歌は思い出す。
ここは音也くんの部屋で、音也くんのベッドで一緒に眠っていた……はず。
でも今は、隣に誰もいない。
最初に部屋を真っ暗にしたけれど、お話を続けている時にちょっとだけ明るくしようか? とベッドサイドにある小さなランプを灯して二人でおんぷくんの冒険で盛り上がった。
温かみのある電球色で仄かに照らされて見える音也の表情は春歌にとって、とても穏やかなように見えた。
物語をすらすらと語り続けていくその姿は、昔、誰かに同じように聞かせられたお話だったんじゃないのかな、なんて春歌はそんなことを思う。
とはいえ、おんぷくんという彼の愛着あるキャラクターにまつわる話は、彼らしい物語性を帯びていたから、彼のものなのだろう。
あれだけ優しい眼差しで自分のことをいつまでも見つめてくれているような気がした彼がいないのは不思議だった。
カーテン越しに差し込む透けるような朝陽からは、もう朝なのだと時間を教えてくれている気がしたけれど、お互いにスマートフォンにセットしている目覚ましはまだ鳴っていないようだしと待ち受けで時間を確認してみるとやはり早朝だ。
(音也くん、どこに行ってしまったんだろう?)
もしかしたら、お手洗いとかで、一時的に抜けているだけなのかもと思ったけれど、なんとなく心配になって春歌もベッドから這い出して、メゾネットになっている室内の階段を使って一階のリビングまで降りていく。
降りてすぐに見えるソファに音也が腰かけているのが見えて、春歌はすぐに声をかけた。
「音也くん、おはようございます」
「……んっ? あ、もう朝? 朝か……。ふぁぁ……春歌、おはよう」
声をかけられて肩をびくっと跳ねさせた音也の様子が気になっていると、いつの間にか手元で支度を終えていたのか普段使っているボディバッグをかけてから、帽子を被ってすぐに「じゃあ仕事行ってくるね」と春歌のほうへと振り返って微笑んだ。
「もう行くんですか、えっと、朝ご飯とか……」
「あぁ、いいのいいの。ごめんね、朝はやくからロケはじまるの春歌に伝えてなかったね」
「そうだったんだ……」
「今日は夕方くらいには帰ってくるよ! あ、春歌も仕事で出かけるかもしれないだろうから、これ部屋の鍵」
手のひらをだして、と乗せられたのは、おんぷくんの小さなチャームがついた鍵だった。
その鍵を眺めてから、春歌はふと気づく。
「あれ。鍵って一つしかないですよね?」
確か意図的にスペアを作りたいと申し出ない限り、寮で渡される部屋の鍵は一つだったはずだ。
つまり、一つしかないこの鍵は、音也だけが持っている、この部屋の唯一の鍵だ。
それを春歌が持って出て行ってしまっては、何かがある時には音也が部屋に戻れなくなってしまう。
「あぁー……あのね」
何か言いにくそうにしつつ、音也は春歌から視線をそむける。
理由がわからなくて、春歌が小首を傾げると、ええとね、と音也は説明をはじめた。
「実は合鍵をだいぶ前に作ったんだ。いつ渡そうかなーと思ってたんだけど」
本当は作ってすぐに渡せばよかったのに、なんかいいタイミングがないかなって伺ってたら意外と中々言い出すタイミングがなかったんだよねーと、音也は照れくさそうに笑った。
「俺の部屋、いつでも遊びにきてもいいよって。そういう感じで渡そうと思ってたんだけど。まあ、とにかく、春歌がこの部屋の鍵を閉めるのも開けるのも、これで出来るから」
「あ……」
そうだったんだ、と彼に手渡された鍵を春歌はまじまじと見つめた。
一つしかないと思っていたこの鍵は、きちんと合鍵として作られていて、元々渡すつもりだったと伝えられてから春歌はハッと何かに気づく。
「わたしの部屋の合鍵も今度作るね。音也くんも好きに入ってもらっていいから……!」
「俺、春歌の部屋に行く時は春歌がいるときに遊びにいきたいかも。ただいまーって遊びにいかせてよ」
ちなみにマスターキーと合鍵は目印をつけておくことって寮の管理スタッフの人から言われてるから、俺が持ってるマスターキーについてるチャームのおんぷくんはデカくて、春歌の合鍵についてるチャームのおんぷくんは小さいんだよと音也が自分の持っていたマスターキーについているおんぷくんを見せる。
「本当だ。音也くんの鍵についてるおんぷくんはおっきくて、わたしの合鍵についてるコは小さくて可愛らしいです」
「えへへ。かわいいでしょ。あぁ俺、そろそろ行くね。俺の部屋好きに使っていいからねー」
ここで大丈夫だから! それじゃバイバイーと見送り不要と言われて音也はあっさりと部屋を出ていってしまった。
一緒の部屋にいて、距離は近づいていると思いはじめていたのに、それをあえて意識させまいとするような彼の態度。
ソファで押し倒されてから長いキスをした時も、昨日どこで寝るかで話した時にも、普段よりもお互いの距離が近づいていると思っていた。先程の合鍵の話だって嬉しかったのに、どこかあっさりと出かけてしまう彼に対して寂しさを感じてしまうのはなぜなのだろうと小さな違和感を春歌は覚えていた。

たかさか
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