彼女が荷物を取ってくるまでの間、音也はベランダからなんとなく隣の部屋を覗き込むようにして眺めた。
ここからでもガラスの破片が飛び散っていて、KEEP OUTという立入禁止だということが文字からも視覚からもわかる規制線が貼られているのがわかった。
修繕まで時間がかかることも含め、何が悪かったのか後ほどシャイニング早乙女自身が現場検証するので、現場を保全しているらしい。
(さながら事故現場だよなー。それにしても春歌が部屋にいない時でよかった)
とはいえあのシャイニング早乙女のことだから、自身の事務所に所属する大切な作曲家に怪我を負わせるということはないだろう。
それでもあのおっさんですらミスをすることもあるんだな、と完璧とはまた違う破天荒でも何でも成し遂げる憧れのアイドルのことを思うと、今回のことはどこか不思議だった。
(でもおっさん、昔、着地失敗して頭ぱっくり割れて血がドパドパ出てた時あったしな……)
決して無傷で伝説を築いてきたわけではない。こうした失敗も幾度も重なってきて今日があるのだろう。そうした伝説に俺達を無駄に巻き込むのはやめてほしいけれど……。
ピンポンと呼び鈴が鳴らされて、春歌が荷物一式を用意し終えてやってきたのがわかった。
どうぞどうぞと普段とはちょっとよそよそしい態度で彼女を出迎えてしまったのは、いつもであれば「じゃあまた明日」と別れるのに今日は別れを告げなくてもいいとか、そういうことを頭の片隅で考えていたら緊張してきてしまったというのが実のところだ。
想像していたよりもでっかいカバンを抱え込んで彼女はやってきた。
音也は彼女の代わりにそのカバンを担いで、リビングまで運び込む。
それから一息つこうと隣合わせにソファに座りこんでから、「春歌、荷物は何を持ってきたの?」とでっかいカバンの正体を尋ねた。
すると春歌はええと、と思い出すようにしながら一つ一つ持ってきたものの名前を挙げていった。
着替えに、パジャマに、作曲で使ってるノートパソコンに、お風呂を借りる時に使う洗面用具一式に……と旅行にいくなら必要なものがずらっと挙げられたのを聞いて「すっげぇ、春歌。俺んちに旅行にきてるみたい」と音也は笑って感想を述べる。
「りょ、旅行といいますか、その、お泊りです」
「……いいね~、そのお泊りってやつ!」
うん、なんか響きがすごくいい、と音也がはしゃいでいると春歌の携帯が聞き覚えのある着信音を鳴らし始めた。
「あ、電話?」
「いえ……メッセージです。あ、月宮先生からです……、先生すごく心配してたから」
「確かにりんちゃん、すっごい心配してそう」
「どこに泊まるのか教えてってきてます。えと、音也くんのへやに……」
ぽちぽちと返信内容を口に出しながら打ち始める春歌にむかって「うわーっ!」と音也は反射的に大声をあげた。
その大声にビクッと肩を跳ねさせた春歌は「ど、どうしたの!?」とその大声に何かありましたか!? と心配そうに尋ねた。
「あっ。いや。りんちゃんに……俺の部屋に泊まってるっていったらさ、男は狼なのよ! ハルちゃんダメよ! って反対されそうだなって」
「音也くんって先生のモノマネもできるんですねえ」
「あぁうん。つい」
「でも先生にはどこに泊まってるか教えないと心配かけちゃいます」
「それはそうだけど……」
「音也くんは狼ではないので大丈夫ですって連絡すればいいかなあ」
「え?」
狼ではない音也くんの部屋に泊まっていますって連絡するってこと? と音也が確認をとると春歌はこくこくと頷いている。
「狼にならない自信が俺にはないよ……」
はあ、と小声でつぶやいた音也のぼやきが聞こえなかったというように春歌がなんでしょうと突っ込むと音也はなんでもないとすぐにごまかす。
そしてその連絡はうまくいかないと思うんだよね~とうーんと悩みつつ、「お友だちのおうちにいます」って連絡するのはどうだろう、と音也は提案した。
「トモちゃんと連絡がとれないのは先生は知ってると思うんです」
「春歌だって友千香以外に友達はいるだろ?」
「……え?」
「え?」
「あ、お仕事で知り合った方はいますけど、お泊りできるようなお友達は……」
悲しげな表情をする春歌を見て、そっか、そうだよな、そこまで踏み込めるような人間関係は春歌もすぐに作れないよな、と下手な質問をしてしまったことを音也は反省した。
「でもまー、友達のところにいる、で押し切るしかないよ」
「……嘘をつくのは心配してる月宮先生に悪いです」
「でも絶対、ダメダメー! ってりんちゃん怒るよ。お泊りできなくなっちゃうよ」
「お、お泊りできなくなる……」
それも嫌です、とシュンと春歌は落ち込む。もしかしたら、音也が想像するよりも春歌はお泊りを楽しみにしているのではないだろうか、なんて思う。あの荷物の量のことも考えればたくさん準備をしていたってことなのだからきっとそうなのだろう。
「時にはー……必要な嘘もあるよ。大丈夫、りんちゃんが心配するようなことは俺はしないし」
「……うん。わかりました、先生には悪いけど……お友だちのおうちにいますって返事します」
決意を固めたように春歌は手にしていた携帯で返信を打つ。
そして送信を終えてから、音也の方を見て「嘘、ついちゃいました」とバツが悪そうな表情で笑った。
「嘘つかせちゃってごめんね」
こんなふうに嘘をついて、二人で秘密を作るのは確かにどこか罪悪感がある。
恋をしてはいけない、恋愛禁止令のルールを破ってお互いの想いを伝えあった時にも似た、心の奥底で燻る火をつけてはいけないような感情が溢れてくるような気がする。
こうした焦がれるような感情は、今こうして自分の肩を抱き寄せて優しく慰めてくれる彼が教えてくれたんだなと思うと、音也くんと恋をするということが自分たちにとってはこうした背徳感が常につきまとってくるのかもしれないなんて春歌は思う。
もちろん倫理的にだったり自分の価値観は曲げられないこともあるだろうけれど、彼と一緒ならどんどん変わっていってしまう気がする。
今までどんな色かわからなかった自分が、彼の色に染まっていっているような、そんな気がする。
そして今、必要以上に彼の手が頬に触れたり、肩を抱くことで励ましてくれているのがわかるけれど、そうした行動や触れ合いが増えるたびに心と身体がカッとなるように熱を帯びていって、だんだんと春歌はのぼせそうになる。
「おおお、音也くん、大丈夫だよ、わたし、平気だから」
「うーん。でも俺のせいで春歌がつきたくない嘘つかせちゃったの悪かったなって。俺の悪いクセに春歌を巻き込んでる気がするんだ」
「……音也くんは、わたしがどう思うかをいつも想像してくれますよね」
「ん? うん」
「いつもそんなふうに考えてくれて嬉しいです。でも音也くんが想像して、傷つかなくてもいいんだよ」
春歌も音也がしていたのと同じように音也の頬を優しく撫でる。
音也くんは素直だから、考えていることがすぐに言葉に出る。
そして、相手が感じただろう喜びを自分のことのように喜べるし、どれだけ傷ついたのだろうって想像して一緒に傷ついてしまう。
それはきっと優しさからだけではなくて、一緒に喜んで、傷ついて、そうすることで一緒なんだってことを確かめたいんじゃないかと春歌から問いかけられて音也は「?」と首を傾げつつ、難しいことはよくわからないけれど、一緒にいたいっていうのはそう、と笑った。
「春歌がこんなふうに俺のことを撫でてくれるの嬉しい」
「いつも音也くんに励まされてばかりなので……」
「……そうかなー。俺も春歌に励まされてるよ。あぁでもこうやって身体で伝えてくれるのはもっと嬉しいかも」
自分の頬に触れる春歌の手に、音也は自分の手を重ねた。
こんなふうに覆い隠せてしまうくらいに彼女の手は本当に小さい。
小さい手なのに、俺のことを何度も撫でてくれた時は包みこまれるような優しさに溢れてた。
そしてこの手は、決して揺るがない彼女の憧れと夢を叶えるための魔法の手だってことを音也は知っている。
だからその手で自分のことを優しく撫でてもらえると、自分自身も彼女の夢の一部になれたような気がしてどことなく嬉しい、そんな気がしていた。
そうしてお互いに触れ合っていると、またしてもお互いの境界線がわからなくなりそうだなと音也は焦った。
狼にならない自信なんてとっくのとうになかったけれど、泊まりにくるかどうかって尋ねた時に緊張したような表情を見せた春歌のことを思い出しては冷静さを取り戻そうとする。
(平常心~~冷静に~……間違えない、やりすぎない……)
「お風呂」
「ん!?」
「……寝る前に、お風呂入らなくちゃ、です」
「えっ!? 風呂?」
「え? お風呂……音也くん入るよね?」
「え? 俺も一緒に入るの?」
「? さっきの月宮先生のメールに、社長がわたしの部屋と音也くんの部屋の給湯器も壊してたって報告があって」
「え? なにその悲しい報告……」
危ない。風呂に一緒に入ろうって誘われてんのかと思ったと我に返った音也は春歌の話を聞き入った。
「大浴場の方は使えるらしいので。お風呂、いきませんか?」
「あ――……あ、あぁ、うん……」
そうだね、風呂には入った方がいいよね、という他意などないつもりの考えも、どこか邪な展開を望んでいるんじゃないかと思ってしまう。そんな風にすべてを繋げて考えてしまう自分自身が本当に嫌になってきたと春歌に悟られないように音也は小さなため息をついた。
着替えと洗面用具、一式準備したらいきましょうと春歌に声をかけられて、言われた通りに音也はせかせかと準備をする。
早乙女学園の寮にも大浴場があって、そこで寮暮らしのメンバー同士でよく語り合ったりもした。
思えば女子寮の方にも大浴場があったわけだから、春歌もお風呂行ってたりしたわけかと今更、そんな事を考える。
「音也くん、準備できた?」
「できたできた」
「じゃあ行きましょう」
二人で部屋を出て、ドアの鍵を閉める。
こうやって二人で外に出る時は、お互いの部屋に戻るか、お互いが仕事の出先へ向かうか、遊びにいくかだったけれど、今日は二人で大浴場へと向かうのだ。こんな不思議な気持ちで、一緒に行くことを想像したこともない場所に行くなんてなあと音也は微笑んだ。
「やっぱり旅行にきたみたい」
「ん?」
「なんかワクワクしてきちゃったなあって」
「ふふ。音也くんはずーっと楽しそうです」
「だって春歌と朝まで一緒だもん。楽しくて当然だね~」
ふっふっふと今にも笑い出しそうなくらいの笑みを見せる音也に、わたしもですと春歌も笑った。
(「中編」に続く)

たかさか
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