リハーサルの会場、舞台裏に二人で戻ってきた。
本番のときもこうやっていつも七海は俺たちのことを送り出してくれる。
重い暗幕の、帳の向こうから俺たちのことを眩しそうに眺めている。
本当はマサのピアノから始まる予定だったけれど、スケジュールの都合で今夜は一緒にリハーサルができなくなってしまったから、ピンチヒッターとして七海にピアノをお願いしたら、快諾してくれた。
本来はステージには出ることのない彼女のピアノで、今夜のリハーサルをするのはちょっと緊張する。
緊張するけれど、やりがいがある。こういう舞台を皆で作りたかったんだって、いろんな人たちに見せたかったんだってその気持ちが爆発する。
今までの理想と想像だけだった世界とは違う、実際の音響や自分の声、タイミング、すべてを考えながらステージを作り上げていく。
今はステージの向こうは満たされていないけれど、きっと本番ではたくさんの人たちで満たされて、俺たちの音楽に応えてくれる人たちがいるんだっておもうと本当にわくわくする。
なんだろう、今の俺ならなんだって出来る気がする。なんでも出来る気がしてしまう。それくらい音楽の力ってすごい。
最後まで走り切って、あげていた前髪が汗に濡れて、額に張り付いたのがわかった。
よっしゃ、できたー! っていう悦びのまま、ピアノに座ったままこちらを見ていた七海の元へと俺は走って行って、彼女のことを抱きしめた。
あぁっ、だめだ! 全然我慢できなかった! 俺、昔から全然変わってないかもっ!
音楽の魔法に触れて、何でも出来る気がしたら、君のすべてに触れられる気がしたんだ。
「いいいい、一十木く……! いいい、いろんな人が見ていますからっ……」
客席は空っぽでも、リハーサルにはたくさんのスタッフさんがいる。
そうだった! こんなのきっと許されないと思うのに、俺の心はまっすぐ、今でもずっと君に惹かれてる。
それでもここじゃだめなのかもっていう、欠片しか残ってない理性に引きずられて、俺はどっか二人きりになれる場所を考えながらひとまず小さな彼女の手首を掴んで走り出した。
どこへ連れていかれるのかもわからないといった表情の七海を横目で見ながら、俺だってどこへ向かってるのかすらわからないまま、ただひたすらに駆け抜けて、ひとまず七海がいつも隠れている暗幕の向こうへと二人でかくれんぼする。
「どうだった、リハーサルっ」
「……え! え、えっと、」
またしても言葉にならないみたいな七海のことを、ジッと見つめる。
感想を欲しがる俺に「ごごごごめんなさい、待って、なんかいう、なんかいいますから、ちょっとまって!」と慌てふためいた様子で時間をくださいとねだる七海が本当に可愛かった。
「七海の表情みてたら全部わかっちゃうけどね」
君の笑顔を見ていたら、きっとうまくいったのだろうってわかる。
言葉はいらないなんて思わない。言葉にしてくれたらきっと俺は喜ぶ。でも言葉にならなくても、俺たちはお互いにわかることがあるって思うと、それって最高じゃない? って思うから。
「でもさ、かっこいいならかっこいいって言ってくれてもいいよ?」
それ以外の答えはないだろ、なんて彼女を前にして溢れ出てくるこの自信はなんだって思うけれど、なんか七海の表情を見てたらわかるんだもん。
七海は、ええと、あのぉ……ともじもじしながら「あのね」と必死に言葉を探してる。
「ん?」
「ひゃあああっ」
七海の声があまりよく聞き取れなくって、自然と身体を寄せたら、寄せた分だけ逃げるように七海が身体を引いた。ちょっと悲しい。
「あ、ごめん、え、でも、そんな嫌がられると……」
「い、嫌がってるわけではなくって! あのね、一十木くんはもっと自覚してほしいです!」
「ん?」
「あの……そんな……姿で近くにいられたら、……ドキドキしちゃうんです、本当に、あの、その、かっこいいから……」
「あ、はい」
「あとすごくいい匂いします……」
「いい匂い? 汗臭いでしょ、どう考えても」
さっきのリハーサル、動いていた時よりも動きを止めた後から流れてきた汗の量が半端なかった。だから着ていたジャケットもなんか蒸れてるのわかるし、汗臭いだけだと思うんだけど……。
「七海の方がいい匂いするけどな」
匂いの話を君がするなら俺も嗅いじゃえ、と思って彼女の頭をゆっくり撫でてから毛束を手にとって鼻先をすんすん鳴らして嗅いでみた。
すると七海は本当に目をまんまるくして縮こまってしまった。先に匂いの話をしたのは七海なのに。
「あのっ……ここで、こんなことしてたらっ、やはりいけないといいますか、いろんな方々が見てると思うし……」
「ん? さっきはステージ上だったから、やばいと思ったからここにきたけど。……ここなら誰も見てないんじゃない?」
さっきまで全力で歌っていたこともあったせいで、少しだけ自分の声が掠れ気味なのはわかってた。
それでも、あえてわざと掠れた声を出したのは、彼女を逃がさないための卑怯な牽制だったかもしれない。
けれど、暗闇の中で見上げた七海の瞳は、逃げるどころか、真っ直ぐに俺を射抜いていた。
「でも……わたしが、見てます」
誰かに見られることを怖がっていた七海が、俺のことを見つめている。
ドクン、と心臓が跳ねた。 ズルい。そんな顔で、そんな声で言われたら、もう一歩も引けなくなる。
「……俺も見てるよ」
気づけば、彼女を壁際に追い詰めるように一歩踏み出していた。
「最初から。七海のこと」
触れそうなほど顔を近づけると、七海の息を呑む音が聞こえた。
「今の俺じゃダメ? 何が足りない……?」
自分でも驚くほど、切羽詰まった声だった。アイドルとしての笑顔なんて、今は一枚も貼り付けていられない。
ただの男として、彼女が欲しいって、歌を通して君に触れるだけじゃもう足りなくて、何が足りないのかがもうわからない。
「足りない、なんて……」
戸惑い、視線を彷徨わせる七海。その不器用で愛らしい姿を見た瞬間、胸の奥で燻っていた焦燥感が、ふっと柔らかな愛おしさへと溶けていくのを感じた。
あぁ、俺はこの子を怖がらせたいわけじゃない。
「足りないんじゃなくて、必要なのは勇気だよね」
堪えきれずに笑みをこぼすと、俺は彼女の耳元に唇を寄せた。
「七海、大好きだよ」
歌の中でなら正直でいられたのは、きっと怖かったから。君の一番近い距離にいたいって、それを望むなら歌の中でしか伝えられないって思い込んじゃったんだ。
でも宝物みたいに光る、君からの贈り物や君自身を見ていたら、それだけじゃ足りないなんて思ってしまった。
俺は君にたまらなく恋をしているから、今の歌を歌えるんだって、それをどうしても証明したい。
俺の大好きって言葉の意味に気づいてるのかもわからない七海は、俺のことを変わらずに見つめてくれていたけれど、いつもよりもドキドキしているんだろうってことがなんとなくわかる。
「あの……本当に、その……一十木くんの歌を聞いて、今の姿でこの距離でそんなこと言われたらドキドキします……」
「それはそうだよ。だって俺は七海のことをドキドキさせたくて言ってるんだもん」
「……そ、そうなんだ……!?」
「そうだよ。それでね、七海にも俺のことを大好きになってほしいんだ」
君のことが大好きなんだっていう気持ちは最初から隠せてないことなんてわかってた。
ずっとずっと君に惹かれてる。
でも君が俺のことをどう想ってくれているのかまではわからない。
わからないんじゃなくて、答えになることが怖いから、きっと好きだって思うだけで満足してた。
どうしようって、必死に視線を泳がせる七海のことを見る。何が正解なのだろうって、気持ちを伝えた俺と同じように一生懸命に戸惑っている。
「一十木くーん! さっきのリハ映像、確認してほしいのになあ、困ったなぁ、どこいったんだろう?」
「あれ、七海さんは? いない? 曲のことで相談したかったんだけど」
スタッフの人たちが俺たちのことを探し始めてる。
困り果てた七海の手を取って、また俺は駆けだす。二人きりの隠れんぼを続けるために、今度はどこへ行こう?
ふと、彼女の手を離してみた。
今だったらきっと引き返せる。俺の気持ちに無理に答える必要はないって伝えたかった。
だから手を離して、彼女が行きたい場所へいくのなら、それを見送ろうと思った。
でも七海は、俺が離した手を、もう一度しっかりと握り直してくれた。触れないと思っていたのに、七海の方から触れてくれたのが嬉しくて、声を弾ませて聞いてみる。
「このまま、どこに行く?」
「一十木くんの行きたいところにどこへでも!」
「なるほどね、任されたっ!」
やっぱり綺麗な瞳をした君が、まっすぐ俺のことを見つめてる。
でも今は皆を困らせないためにスタッフさんたちのところに行かなくちゃね。
やりたいことを全部やりながら……今度は七海と一緒に、宝探しをしにいきたい。どこへでも、どこまでも。

たかさか
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