二人で慌てて屋上からの階段を駆け降りていく。
途中で鳴り止まなさに観念したのだろう、七海がブレザーのポケットから携帯電話を取り出して耳にあてながら「トモちゃん」と電話口の相手の名前を呼ぶ声がする。
元々器用ではない七海は、階段を降りるのと電話をするという行為両方に戸惑ったのか、足を滑らせかけていたので慌てて肩をつかんで自分の方へと引き寄せた。
「わわわっ……、い、一十木くんありがと……!」
「どういたしまして」
彼女のことを助けるたびに、うん……と頷きながらも、七海はとてもしょんぼりとした顔をする。
どうしてこんなにうまくいかないのだろうと本気で落ち込んでいる。こんなこと本人には言えないけれど、正直いって落ち込んでいる七海も可愛い。だから七海がどれだけ困っても、転びそうになっても、俺が助けてあげるからって思うんだけれど落ち込んでいる彼女の瞳の奥からは(変わりたい)と強く願う彼女の意思を感じるから、助けてあげることだけが七海にとってしてほしいことじゃないんじゃないかって、彼女と付き合う内にそれを理解してきた。
「七海はさ、色々な出来事がいっぺんに起きると慌てちゃうタイプだから。色んなことがあったら、一旦落ち着いて、すう~って息吸って~。俺のことでも思い出してから、やらなきゃいけないことやっていったら?」
階段から落ちそうになっていた彼女の肩を掴んで抱き寄せたものだから、後ろから抱きしめる姿勢になっているのだけれど、そんな状態の中、七海は振り返るよりも上を向いて俺を見ようとしたから、俺もそれに答えて彼女を見下ろすように見つめる。
「一十木くんのことを思い出すの?」
「そうだよ。七海の中で俺を思い出す時はどんなかんじ?」
「ええと……いっつも歌を、歌ってます」
「どんな歌?」
「うーん。何の歌はわからないんですけど、例えば購買でカレーパン買えた時はカレーパンの歌を歌ってるよ」
「ほほー。俺、ほぼ無意識なんだよね」
「カレーだ、カレーだ、揚げたてだ~カラっとサクっとカレーパン~って歌いながらこないだ廊下歩いてたよ」
「ほほー。それは恥ずかしいねぇ……!」
なるほど、七海にそういう俺をよく見られているんだね……と記憶のない歌を歌いながら歩いていた自分の目撃情報を寄せられて、俺はあまりの恥ずかしさに自分を上目遣いで見つめたままでいる七海の視線から外れようと顔を背ける。
「あ、でもカレーパンの歌はとってもリズムがよくてですね、あと一十木くんの声には優しいゆらぎがあるから……」
「待って、七海。そんな真剣にフォローしなくていいから……」
確かに変な歌ばっかり歌ってると周りの人たちから引かれることはある。音也っていっつも変な歌を歌ってるよなってからかわれるだけで、内容まで気にする人なんかいなかった。
だからここまで言及されることなんてなかったのに、七海はこうして俺がどんな歌を歌っていたのか、どんな感じだったのか、そしてそれがどれだけ七海にとって素敵な歌に聞こえたのかを丁寧に解説して、とっても嬉しそうに教えてくれるから、これはもう恥ずかしさを超えて、まるでラブレターをもらってるような気分になってきちゃうんだ。
「フォロー……? 一十木くんの歌が大好きだよって話なんだけどな……」
「ふうん……。一十木くんの歌が大好きなんだ。一十木くん自身はどう?」
「?」
質問の意味を理解するのに、七海は数秒程度活動停止する時がある。
難しいことを聞いてるつもりはないんだけど、七海にとって、それはどういうことなのかな? と頭の中で考えるのに時間がかかるってことなんだろう。何を言われたのか一瞬わからなくて「?」って首を傾げる時の表情が七海は可愛い。
それでようやく理解した後に、ただでさえくりくりとしておっきな瞳を見開いてから「……一十木くん自身⁉」と小動物が衝撃を受けたような表情に切り替わるところが面白い。
だからこんなふうに色々聞いちゃいたくなるんだよね。
「い、一十木くん自身……そ、それはだって、さっき、言ったよ……」
さっき、というのは屋上での出来事のことだろう。
すごく勇気を出して、俺の名前を呼んで、「大好きだよ」って七海はたしかにそう言ってくれた。
名前を呼んでよってあれだけおねだりもしたのに今はもう、一十木くんに呼び方が戻ってるけれど、それはそれでいい。
一時期、呼び方にこだわっていたこともあったけれど、俺たちはこの場所で、そうやってお互いのことを呼んで過ごしたんだから、最後の日までそうでもいいじゃないかってそうやって思えるくらいの感傷に浸り始めている。
「えへへ。七海が俺のこと大好きっていってくれたのうれしいから、何度でも聞きたくなっちゃった」
『何度でも聞きたくなっているところ申し訳ないんだけど、早く戻ってきてくれるかしら~?』
七海が耳に当てていた携帯電話は、転びそうになった時に手で握りしめたままだった。
七海に握りしめられていた携帯電話から、結構な声量で叫んでいる友千香の声が聞こえてきたってことは。
……もしかして、さっきまでのやりとり。聞こえてたってことなんだろうか。
七海はもう一度、携帯電話に耳を当てて「トモちゃん、ごめんなさい、今行きます」とぎゅっと目をつむりながら、よく駅前とかでサラリーマンがよくやるようなおじぎを繰り返して(申し訳ありません、申し訳ありません)という姿勢をアピールしていた。
「……はい、一十木くんいます。背後に。いえ、幽霊じゃなくて普通にいるっていうか」
何の会話をしてるんだ……七海の背後にいるから地縛霊になってるとでも思われてるのかな。
「一十木くん、電話代わってほしいそうです」
「俺?」
電話の相手は友千香だろうから、早く戻ってこいって怒鳴られるのかなとげんなりしながら差し出された七海の携帯電話を受け取って「なに?」と話しかけると「一十木」と聞き覚えのある声がした。
「あれーーマサじゃん。どしたの」
「どしたのではない! 何度電話をかけたと思っている! 破廉恥行為を繰り返している場合ではないぞ、早く戻れ」
「破廉恥行為なんてしてないんだけど」
なにそれと思ってマサにとって破廉恥行為ってどういうことって詳しく教えてと食い下がると「説明させるな!」とピシャリと一言だけ叫ばれて電話は切れてしまった。
「もうHRがはじまるまで十分くらいしかないです」
携帯電話を返したときに待ち受けに表示されている時計を見たのだろう。七海は困ったという表情をしている。
ただでさえこの早乙女学園はだだっぴろい。俺たちの通うAクラスの教室にここから俺一人だったら全力で走れば間に合うだろうけれど、七海が追いついてこれるかどうかはわからない。
まあ……HRだし……サボってもいいんじゃないかなあ……とか考えはじめているあたりで「サボるのはダメです」とメッと七海に考えをあっという間に見抜かれて先回りで叱られた。
俺ってそんなに考えてることわかりやすい表情してるのかなあ?
「そうデーーーース、ラストHRをサボるなんて悪いコ悪いコイケないコデーーース!」
「うわーーーー‼」
急に壁から学園長の顔面だけが飛び出してきて、驚きのあまり七海にぎゅっとしがみついてしまった。
七海の位置からは声だけが聞こえたみたいで、壁から生首が飛び出している異常事態には気づいていないようだ。
だって壁、コンクリだろ? どうやったら顔を突っ込めるんだよ、壁の中はどうなってんだよ⁉
「そんな悪いこと考えてるのは誰かと思ったら……卒業オーディションでせっかく優勝したのにダメダメネ。取り消しちゃいますヨ」
「はあっ? 取り消しは困る!」
「これから先、YOUたちは様々なお約束や決まり事、遅刻厳禁お仕事盛りだくさんデーース、サボり癖なんてとんでもない! あと十分で林檎サンたちの待つAクラスにGOALしてくだサーイ!」
「は?」
「階段を降りきったら、カウントダウン開始デース!」
HURRY UPーーーーー! と学園長の叫び声に煽られて急かされて、俺たちはようやく屋上からの階段を降りきった。
そして、いつの間にやら敷かれていたスタートラインに靴先が触れた瞬間に「START!」という掛け声がかかる。ようは走れってことなんだろう、俺は「七海っ!」とひとまず彼女と手を繋いで引っ張って走ろうと決める。
俺の意図に気づいた七海が同じように手を伸ばしてくれた。
ぎゅっと握りしめ合う。離さないっていう決意がお互いに伝わってくる。
なんだろう、初めて手を繋ぐわけでもないのに、どうしてこんなにドキドキするのだろう。
無駄に盛り上げようとしているのか運動会の時に流れるような曲ばかりが学園内に大音量で流れ始める。
なんだなんだとすでにHRのためにクラスに集合している生徒たちのざわざわした声も廊下まで聞こえはじめてくる。
「ホームルゥゥムまであと五分デーース、一十木クンもーぉ~七海サンもーぉ~ホラホラホラ頑張ってくだサーーイ!」
赤組さんがんばってください、白組さんがんばってくださいの要領で歌って踊る目障りなシャイニング早乙女がいたるところに出現してはくるくる回転している。
普段自分が走ったことがないような速度で引っ張ったせいで、足をもつれさせた七海が転びかけたのを見て、抱き寄せてそのままお姫様抱っこをして走る。こうした方が断然早かったなと思うのと、やっぱり七海は軽いんだよねえとあっさり持ち上がってしまった自分の彼女に驚きながらも駆けていく。
「オオットゥ、Mr.イットキ、お姫様抱っこはYOUはされる側ですヨーーー!」
その様子を見た学園長がピピーッと笛を鳴らしながらなぜか近寄ってくるけれど、お姫様抱っこをされる側と聞いてそういえば学園長に抱かれてそのまま窓を割って飛び出していったのを思い出してしまって最悪だと思った。
「い、一十木くん、走れますから……!」
大丈夫です、と俺に運ばれながらも離してくださいと懇願してくる七海に「七海は、俺の首にしーっかり捕まっててよ」とウィンク一つすると、またしても七海は思考停止していたけれど、揺れにあわせて俺の首元にぐっとしがみついてくれた。
「くう~~、これはくるね! やっぱりお姫様抱っこはする側じゃなくちゃね!」
ほらほらいくぞーっと残り時間も何もわからないまま、ひたすらAクラスを目指して俺たち二人は駆け抜ける。
お姫様抱っこ、俺はされる側判定でなぜか反則を取られるかと思ったけれど、学園長はそのまま何も言わなくなったのでオッケーということなのだろう。
ようやくAクラスの教室が見えてきて、わずかに開いていた扉に足を滑り込ませて乱暴に開けると、頭上でどでかいくす玉がパッカーーーンと割れて「セーーーーフ!」と書かれたのぼりと、大小さまざま、銀紙と金紙が混ざった紙吹雪が降り掛かってきた。
何が起きたのかわからないまま、抱き抱えたままだった七海とお互いを見つめ合う。
ようやくきたという笑い声に包まれている教室。
黒板には卒業に向けて寄せ書きみたいに、たくさんの落書きがしてある。
教卓にはいつもと変わらない立ち姿でりんちゃんがいて、俺たちの方を見ながら、腰に手を当てながら「はーい出席取りまーす。オトくん」といつもと変わらない声で呼ばれる。
「……あぁ、はいっ!」
「ハルちゃん」
「はい!」
「HRまであと十分!アイドルデビューの危機⁉ 遅刻したらダメダメダメナノヨ限界レースへの参加お疲れ様ぁ~、じゃあ座って~」
「そんな名前のレースに俺たち参加してたのか……」
「そうよぉ、間に合わなかったらぜーんぶ取り消しなんですからね。シャイニーは厳しいんだから」
だから遅刻もサボるのもダメよと怒られて、俺たちは「はい」と素直に頷いて反省する。
席はお互いに少しだけ離れていたから、七海にまたあとでねと目だけで合図してお互いの席に座る。
七海は俺より前の席。
俺は七海のことがよく見える、後ろの席。
……七海のことがよく見える席だなあって一年間ずーっと思ってたけれど、それは違うんだって俺はいまさら気づいた。
七海のことがよく見えるんじゃなくて、俺が、七海のことをよく見ていただけだったんだ。
入学してから初めての挨拶で緊張しっぱなしの七海にせっかく可愛いんだからさって声をかけたけれど、それはこうやってずーっと見てたからなんだと思う。
アイドル志望なのかなあと思ってたら作曲家志望でびっくりしたりもした。
教室の片隅に割れたくす玉が放置されたままなのはシュールだなと思いながらも、キラキラとした紙吹雪が頭に乗ってるのに気づかずに真剣にりんちゃんの話を頷きながら聞いている君を見る。
初めて出会った時から、それは変わらない気持ちだったはずなのに、今日はどうしてこんなに悲しいほどに募る気持ちを繰り返しているのだろう。
これから新しいところへと俺たちは旅立っていく。
色んな体験をさせてくれた早乙女学園って場所から切り離されていく。
最後なのに、やっぱりHRちゃんと聞いてなかったな。
なぜかこの気持ちがバレたくなかった時もあって、気にしてるってことを知られたくなくって気のないフリをしようとしたけれど、そんなの全然得意じゃなくてできなかった。
最初の頃と変わらず結局、君のことばかり見てた。