ときめき

  • pixivでシリーズとして公開していた「ときめき」の再録です。

    改行がうまくいかなくて読みづらくてすみません……

    時空としてはマジLOVEシリーズ軸のマジレボ嶺二回で音也くんが春歌ちゃんが遅くに帰ってきたのをみて(むむう!?)みたいな表情で見ていたのが印象的だったので、そのときの感情のまま突き進み、知らずしらずにときめきがはみ出ている一十木音也くんが怒涛にお誘いして……な音春のお話です。
    (どんな時空)

Next Post Previous Post 君とひとつ屋根の下(後編)

#18 好きになれるといいね

 彼から伝えられる一つ一つに対して、何かを答えなくてはとぐるぐる考えたけれど、言葉にならなかった。
 触れ合えない距離で聞こえる彼の声はどこか冷たくて、もしかしたらこっちが本当の一十木音也なのかもしれないと七海春歌は彼の話を聞きながら、そんな事を考えた。
 他の女の子を好きになろうとしてるということ。
 君は俺以外の誰かと一緒にいた方が幸せになれるんじゃないかと思っているということ。
 でもどちらかといえば、君が幸せならそれがいいってことなんだってことを音也は繰り返し繰り返し伝えてくれた。
 自分がそうしたいと願うことよりも、君はどうしたい? と尋ねるようにしながら続ける音也の独白を「うん……」「そうだね」「はい」と力なく頷きながら、春歌は何度も聞いた。
 いつもしつこく誘っちゃってごめんねという謝罪だったり、手が空くといつの間にか君のことばかりを考えちゃってるという話を続けた後に、はあ、と苦しそうな音也のため息が聞こえてきた。
「俺の話ばっかりしてるね。七海の話も聞かせてよ」
「……わたしの話?」
 結局音楽に向き合ってばかりの春歌ができる話は今作ってる曲の話であったり、その曲を歌う時の音也の姿の話や、アイドルとして活動する姿を見れることがすごく楽しいということばかりだった。
 音也は春歌の話を「うんうん」と聞いて、時折あくびを交えながらも「七海は本当に音楽が大好きなんだねえ」と頷いてくれた。
「はい。大好きです」
「そっかぁ。俺、音楽には敵わないなぁ」
「うん?」
 どういう意味なのかなとつい尋ねるような仕草で漏らした春歌の声に音也は「俺、音楽のことが大好きな君が好きなんだってそう思うからさ」としみじみとそう呟いた。
 そろそろ眠気が限界なのだろう。音也の声がふにゃふにゃとしてきたのを悟った春歌は、最後にこれだけは聞いておきたいと思ったことを口にした。
「一十木くん、こないだのこと本当にごめんね」
「ん? あぁ……キスできないって話?」
「はい……」
「いいよ。どーせいつかはする喧嘩だったんだから、あの時しといてよかったって俺は思うし」
「えっと、うん、それと」
 他の女の子を好きになるっていっていたけれど、それは本当にそうなんだろうか。
 だとしたら連絡を取らない方がいいのかな、迷惑かけちゃうよね、と頭の中で考えてから、そうした方がいい? という主旨のことを春歌が尋ねると、むにゃむにゃとした口調のまま音也は「……んー……うん」と頷いた。
「わかりました」
 最初は冷たかった音也の声も、いつの間にかいつもと変わらない温かい声になってきていた。
 電話を始めた頃の苦しそうな、喉に何かがつっかかっているような、そうした口ぶりから段々と楽になってきているのは、春歌以外の誰かとの可能性を考えはじめたことで気も楽になってきたのかもしれない。
 それと同時に、やはり自分とのやりとりが重荷になっているのだろうと春歌はどことなく察した。
 音也にしてみれば、話すたびに春歌のことが好きなのだとその自覚に満たされて気持ちが和らいでいただけなのに、お互いに考えていることが、どうしようもなくすれ違っていく。
 やっぱり距離を置いた方がお互いのためだと考えながら「今日はもう眠いね。一十木くん、おやすみなさい」と春歌が最後に声をかけると、いつもは電話を切るのに渋る音也はむにゃむにゃしながら、「はあい。おやすみ」と返事を返してきた。
 その後切れると思っていた電話は中々切れなくて、やがて聞こえてきた音也の寝息に春歌はなんとなく聞き入る。
 綺麗なリズムで途切れることなく伝わるその吐息をなぞるようにしながら、仕事で書くのとは別に、この気持ちを表すための曲を書く。
 そして、納得できるようなフレーズを書き終えてから一呼吸置く。
 今なら言えるかもしれない。思い通りのフレーズを書き終えた高揚感がそう言わせたのかもしれない。
 「音楽も大好きだけど……わたし……」
 寝てるならどうせ聞こえないだろうと絞り出すような声で、誰にも届かない気持ちを小声でぼそりぼそりと告げてから春歌は慌てて電話を切った。

 そうして終わりにしたはずのやりとりのはずなのに、翌日にはもう音也から「やっほー、音也だよ」というメッセージが入ってきて、春歌はもう、と苦笑いした。
 つい「どうしたの」なんて書きかけたメッセージを慌てて消した。
 今までならこうしたやりとりもするのだろうけど、彼にとっても自分にとってもこうして近づくこと自体がもう苦しいというのは電話で話したばかりじゃないか。
 春歌の仕事が忙しければメッセージを返すまでに時間がかかるということを音也は察してる。
 緊急の要件だったり、返事を返さなければいけない仕事の用事なら、質問で尋ねてくるはずだから、こうしたちょっとしたことにも反応せずにいた方がいいんだろう。
 しばらくメッセージのやりとりを控えようとして意識しはじめてから一週間ほど経過した頃、事務所に寄ったところで見知った顔のスタッフ数人が顔を見合わせながら「うーん」と考え込む現場に春歌は遭遇した。
 よく見ると、シャイニング事務所で音也の単独ライブに関わっているスタッフたちが集まっているのだと気づいて、何かあったのだろうかとつい「どうしましたか」と尋ねてしまった。
「や、一十木くんのライブ会場の件なんですけどねえ」
 数人のスタッフのうちの一人が春歌の声かけに気づいて唸りながら振り向く。
「社長がね、元々抑えてた会場からもっと狭い箱にしろって言っててね」
 思わず春歌も「ええっ?」と声をあげてしまった。
 箱を変えるということは、今まで決めてきたことをすべて白紙に戻さなければいけない。
 まだ会場の場所やチケットの発売は始まっていなかったから表向きは問題はない。
 問題はないといっても仮押さえの時点で費用は発生しているし、演出や音響にあわせたリハーサルはもう始まっているのだから損害は甚大だ。
 だとしても、あのシャイング早乙女が「変えろ」といっているのだからそれらも織り込み済みで言っているのだろう。
「なんで今頃そんなこと言うんだって、最近アイドルのスキャンダルがあったでしょう? あの件で少し前に一十木くんが社長怒らせちゃったみたいで」
「別に恋愛くらいよくない? っていつものノリだったらしいんだけどねえ~」
 はあああ、とこの場にいるスタッフ全員が顔を見合わせてため息をついたのを見て、その時の様子が春歌は何となく想像ができた。
 春歌自身も社長に呼び出された時のあの迫力を知っている。音也の軽いノリというべきか、思ったことをつい口にしてしまう性格はシャイニング早乙女もわかっているからこそより厳しくあたるのだろう。
「その場はなんとなく収まったんですけど、後から社長がスタッフに向けて会場変更しなサーイって指示がありまして……あぁ怒ってるな、と。それで準備してた演出全部見直してて……それで七海さんにも連絡取らなきゃねと話していたところです」
「あ。なるほど、尺が変わったりしますか?」
「変わりますね、あとは一十木くんがしたがってたここの演出は舞台そのものがなくなるんで……」
「あぁ……」
 ここのパートは音也がこんなのどう? と提案して非常に楽しみにしていた演出の一つだ。
 そのために曲の間奏パートが長くなるようにライブ用にアレンジしたものを春歌は書いて渡す予定があった。
 それも使えなくなるってことなんだ、と思うと落ち込む音也の姿がありありと浮かんでくる。
「このまま前の会場が使えるならなあ~……」
 ここに集まるスタッフは全員同じ、音也のことを考えているのだろう。誰がこのライブを一番楽しみにしていたか、主役である本人だというのを知っている。
「社長も意固地になってるから、事務所内からっていうより第三者に仲裁入ってもらった方がいいかもしれないな」
「社長と仲いいプロデューサーさんとかに口利いてもらう?」
 仲のいいプロデューサーかどうかは実際わからないけれど、今回音也が使うライブ会場のスケジュールを抑えるのに春歌が今一緒に仕事をしているプロデューサーからの紹介もあったというのを小耳に挟んだことがある。
 もしかしたら、せっかく会場を抑えるのに手助けしたのにという方面でシャイニング早乙女のことをプロデューサーから宥めてもらえるかもしれない。
 そうしたツテがあるから、プロデューサーに確認してみますと春歌が切り出すと、スタッフたちは「それいいかもです!」と口を揃えてお願いしますと一斉に頭を下げた。

「俺、そういうのはやらないから」
 ここまでの事情を口下手な春歌が長々と説明したにも関わらず、プロデューサーは咥えていたタバコを灰皿に押し付けたかと思うとはっきり一言で断ってきた。
 数人での打ち合わせが終わった後、プロデューサーに話があると春歌が声をかけて二人だけで会議室に残って例のライブ会場の件について手助けしてもらえないかと訴えたのだ。
 はっきりと断られているというのはわかっても、そういうのがどういうことなのかわからないといった表情をした春歌に向けて、プロデューサーは「だから、やんないの」と続けた。
「どうしてもダメでしょうか……」
「あの社長の性格わかってるでしょ。ああいう手合はねえ、ダメといったらダメなんだよ」
 まったく聞き分けがねえな、とトントンとタバコの箱の隅を叩きながら二本目に火をつけてプロデューサーは吹かし始める。
「それより曲。番組のオープニング曲だけど、れいちゃんの確認はとれたってきいたけど、一十木くんの確認はとれたの?」
「はっ。まだです」
「自分の仕事も満足にできてないのに一丁前に全く」
「一十木くんにはこれから確認取ります……」
「一十木くんねえ……」
 フゥーーーと鼻からも口からも濃い煙を吐き出しながら、何事かを考えるかのようにプロデューサーはタバコを吹かし続けている。
「あのぅ……やはりだめでしょうか?」
「しつこいねぇ~……」
 苦笑いをしながらあっという間に吸いきったタバコを灰皿にぐりぐりと押し付けてプロデューサーは春歌の表情をジッと見た。
 何か品定めをされているような気分になりつつも春歌も目をそらすことができず、同じようにジッとプロデューサーのことを見返した。
「あぁ、その目。そうなるとすぐ曲作りとか詰まるんだよな。迷惑なんだよな」
「?」
 目ですか、目? と春歌が目をぱちくりさせるとプロデューサーは春歌にむけて口の中に残っていた煙を吐いた。
「わぷっ」
「んで、シャイニング早乙女社長に俺から電話かけておけばいい?」
「……お願いできますか?」
「ひとつ貸しだからな。ちゃんと返せよ」
 具体的にどう返せばと焦ったように聞き返そうとしても、プロデューサーは首からかけていた携帯を耳に当てていた。
 どうもお世話になっておりますーという外行きのやりとりと、電話口からも漏れ聞こえる自分の事務所社長の大きな声に、あぁもう電話をかけてくれているのだと春歌は縮こまりながらそのやりとりが終わるのを待った。
「はい終わり。箱は最初んとこ使っていいってさ」
 電話が終わってすぐに、プロデューサーは三本目のタバコを咥えながら春歌にそう告げた。
「本当ですか! よ、よかった……ありがとうございます、ありがとうございます!」
「じゃあ行くか」
「? どこに」
「貸した借りを返してもらいにいくんだよ」
 ほら準備しろ、立て、と席を立つように促されて春歌は慌てて立ち上がる。
 立ち上がってから、プロデューサーが使っていた灰皿に気づいて、春歌は灰皿を持ったまま一緒にあわてて会議室を飛び出した。
「なんで灰皿なんか持ってんの」
 灰皿を手にしたままついてくる春歌に、なんなんだというようにプロデューサーは尋ねる。
「使った人が片付けないといけないと思って」
「使ったのは俺だけどね。それ片付けてくれる清掃の人いるから自分でやらなくてもいいけど」
「……気になったんです」
「あ~もう、そこの給湯室に灰皿置き場あるから置いてこい」
 わかりました、というように慌てて飛び出していく春歌を残りわずかになったタバコを咥えたまま眺め続ける。
 通りかかった関係者に「あ、廊下は禁煙です」と言われて渋々とした様子でプロデューサーも春歌が入っていった給湯室に入っていく。
 置いておけと指示した灰皿を丁寧に片付けている春歌の後ろ姿を見てため息をつきながら、近くにあった吸い殻の捨て場に咥えていたタバコを捨てる。
「そこに置いとけつったのに。なーに鼻歌歌いながら灰皿洗ってんだ」
「は……聞こえてましたか」
「わかりやすくウキウキするな」
「先程は本当にありがとうございました……! きっとスタッフの皆さんも一十木くんも喜ぶと思います」
「一十木くんねぇ~……」
 うーん、という様子でプロデューサーは手癖なのか胸元のタバコに手を伸ばそうとして、さすがにここでもう一本吸うのはと躊躇うようにして諦めた。
「あの。会場を最初に抑えるときもそうですし、今回も力添えいただいて。それに最近は曲作りの相談もたくさん乗っていただけて本当に助かってます」
 今更ですけど、本当にありがとうございますと拙い仕草で頭を下げる春歌に、吸おうとして諦めたタバコの箱を胸元のポケットに押し戻しながら「おう」とプロデューサーはぶっきらぼうに答える。
「じゃあ、借りを返してもらおうかな」
「あの、その返すっていうの」
 のは、なんなのでしょうというのを尋ねようとして春歌が躓く。
 姿勢を崩した彼女を反射的に支えたプロデューサーと普段にない距離で目が合う。目があってすぐに、唇同士が触れ合いそうになった瞬間に春歌が「タバコの香り」とそんな感想を口にしたことで距離を縮めるように近づいたプロデューサーの動きが止まった。
「タバコの香り、嫌いなの?」
「嫌いというか、あまり吸う人が周りにいないのでプロデューサーの匂いだな、と思います」
「ほう」
「あっ、待って」
 春歌の感想を聞いてすぐに距離を埋めようとしたプロデューサーの行為に気づいて春歌が慌てるようにして、彼の胸元に手を置いて距離を作る。
「……待って。待ってください。返すって、こういうこと、ですか……?」
「いや。コーヒーでも奢ってもらおうと思ってたよ」
「じゃあ、なんで……」
「たまたま偶然。チャンスだって思った、それだけ」
 胸がバクバクと高鳴った。
 以前音也にキスされそうになって胸がドキドキしたのとは全然違う。激しい緊張からだとわかった。どうしよう、どうしよう。もし今、この行為を拒絶したら、先程かけてもらった電話の件もなしって言われたり、これから作る予定の寿先輩と一十木くんの曲もやっぱりなしとか言われたりしないかな。
「彼氏いないんだっけ?」
「い、いないです」
「いないなら困ることなんかある?」
「い、いなくてもこんなのだめです!」
「可愛いんだし、今までこういうのたくさんされてこなかったの?」
 この業界にいるわりには擦れてないねーというように不思議そうにプロデューサーは首を傾げた。
「されないです! それにその、付き合ってもいないのに」
「んじゃ付き合う?」
 俺はいいよ、というようにいつの間にか給湯室の奥の方まで追いやられて、こんな告白を受ける。
 付き合う? と聞かれて、なぜだろう。
 あの時の音也とのやりとりのことを衝動的に思い出してしまった。
 キスをされそうになって、キスは付き合っている人としたいとそんなことを言ったこと。
 音也はその時は「俺と七海は友達だし?」とそれ以上の関係を望まなかったけれど、目の前の人は軽々とその関係を求めてきた。
「どうする? ここで俺とキスするか、付き合うか」
「……」
「まあ、付き合ったらそのうちキスはするけど」
「えっ」
「そりゃ好きな女にキスはしたくなるだろ」
「……」
「わかってるよ。俺のことを男として意識してないなんてことくらい……」
 はぁぁと長い溜息をついてから、プロデューサーは普段よりもバサついている髪を激しくむしった。
 年齢差だってあるし、今までの力関係の立場だってそう、色目も使ったこともないし、二人きりででかけたこともない、とそんな要素がお互いにないなんてことはわかりきってると早口でプロデューサーは指おり数えるように二人の関係性を例えながら早口でまくしてから、黙り込む。
 黙り込んでしまったプロデューサーの顔色を伺うように春歌が見ていると、「でも」と場を仕切り直すように真剣な表情に変わる。
「付き合ったらそのうち俺のことを好きになるよ」
「そういうものですか?」
「そういうもんだよ」
 これ以上春歌が断れないということをわかっているからこそ、こんなやりとりで弄ばれているのだということを悟って虚しくなる。
 とはいえ、ただでさえ拗れた関係で音也のことを困らせたのに、プロデューサーを怒らせてさらに困らせたくはない。
「あのその……お付き合いしますから、一十木くんのライブ会場のこと」
「それだと俺が脅して付き合わせてるみたいだな」
 なんか違うんだよなぁ、と渋い表情をするプロデューサーに、実際そうじゃないですかと春歌は小言の一つも言いたくなる。
 仕事面では尊敬していただけに、こうした関係を求められるとは思わなくて正直いって幻滅した。
「それに一十木くんねぇ~……」
 そういえばプロデューサーは何かと「一十木くん」と春歌がその名前を口にするたびに繰り返していた。
 何か引っかかることがあるのかと春歌も思案顔でプロデューサーを見ると、その視線に気づいたプロデューサーは「お前、もうプライベートでは一十木くんと連絡取るなよ」と急に切り出してきた。
「どうしてでしょうか?」
「さっき電話したときに社長がさ、一十木くんのスキャンダル気にしまくってるみたいでな」
 だから俺とお前が付き合うってなったらそれはそれでWin-Winな関係なわけだ、と続けたのを聞いて、うぃんうぃん? と春歌が繰り返す。
 とにかくここから出るぞと促されて給湯室を出た後、入り組んでいるテレビ局の人気のない通路を選びながら二人で歩いて話す。
「一十木くんの単独ライブ、成功させたいんだろ」
 その一言で春歌が身体をビクッと震わせて反応したのを見て、プロデューサーはため息をついた。
「俺の言ってる意味はわかるよな」
 前にも似たようなことを誰かに言われた気がする。
 そうだ。言っている意味がわかるな、という言葉がシャイニング早乙女の声ではっきりと蘇ってくる。
「一十木くんとお前のウワサは知ってる人は知ってるしな……」
 そういう意味でも、付き合うって話が例えおままごとみたいなものだとしても、お前はこの話に乗っておいておいたほうがいいんだよとプロデューサーは続けた。
 音也の周りから聞こえてくるウワサというのは二人に関する話題だということなのだろう。
 先日のスキャンダルの件で敏感になっているシャイニング早乙女の様子は手に取るようにわかる。
 音也と春歌の二人でスキャンダルを引き起こしたら、音也の単独ライブは中止になることは目に見えているし、これからの活動にも支障をきたすはずだ。
 これからは予定が合えば寮まで車で送ってやる、といわれて春歌はそのままテレビ局の地下駐車場まで降りていって、プロデューサーの車に乗り込んだ。
「お前、一十木くんの心配ばっかしてるけど。シャイニング早乙女怒らせたら自分の音楽活動だってうまくいかなくなるってことわかっといたほうがいいぞ」
「え」
「俺はシャイニング事務所のアイドルは庇えるけど、作曲家までフォローできるか……」
「わたしのことは別に」
「俺はお前の音楽が好きだから続けてほしいけどねえ」
 バックミラーの確認をしながら、さらりと言われた言葉に春歌は口をつぐむ。
 今の今まで、自分の曲として音楽のことを褒められたことが一度もなかったからだ。単純に希望にそった曲をかける作曲家だから呼んでくれているくらいにしか考えていなかった。
「シャイニング事務所の寮ってどこだっけ? ああ、このあたりか……」
 運転席で携帯の地図アプリを確認している様子を見て、春歌もなんとなく自分の携帯を見た。
 すると、音也から大量に通話の不在着信が残っている。
 ここまで一気に通話をかけてくるということはなかったから、もしかして緊急の出来事かも? と思いつつも「プライベートで連絡を取るな」と言われたことを思い出して躊躇ってしまう。
 仕事のことだったらやはり事務所を経由してでも連絡をいれてくれるだろうし……。
「よし。シートベルトしろよ」
 地図で位置の確認が終わったのか、エンジンをかけた音で車が震えたのがわかって、春歌も慌てて見ていた携帯の画面を伏せた。
「シートベルト、してます」
「上出来、じゃあ行くか」
 やはり車の中も同じタバコの匂いがするんだな、とそんなことを考えつつ春歌は手にしていた携帯から目の前で流れ出す夜景に視線を移した。

 おままごとみたいなもの、という例え通りに二人の付き合いは単純に送り迎えが増えただけだった。
 仕事が一緒になれば、帰りには必ずシャイニング事務所の寮まで送り届けてくれる。
 そのうちすると言われていたはずのキスの予感はひとつもなく、車内の会話もほとんど仕事のことばかりだった。
 本来であれば誰と付き合うとか、そういったことを考えたこともなかった春歌にとって、こうした距離感での付き合いは不思議な関係だなと思った。
 音也と一緒にいた時には、付き合ってはいないけれどあれだけドキドキして、一緒に踊ったり、寝たりまでしたのに、いざ付き合うとなった人相手にはまるでそうした距離の近い付き合いがない。
 この関係に何の意味があるのだろうと思うこともあったけれど、自分自身ではなく周りへの効果はあったようだった。
 シャイニング早乙女には義理立てしておくからという理由で交際してるという報告をいれたとプロデューサーは言っていた。
 その頃から、シャイニング早乙女はあからさまに安心したような態度で接してくることが増えたように思う。
 音也と春歌の関係を勘ぐるようなウワサもあまり聞かなくなった、当然だけどなとプロデューサーは言っていた。
 これなら音也の単独ライブも支障なく行うことができるだろう。心配の種はこうして最初から刈り取っておくべきなのだと聞かされて、これでよかったんだ、正解だったのだと思い込もうとするたびに胸の奥に残った彼への気持ちはいつまでも春歌は払拭できずにいた。
 お互いに連絡をとる意思はないというのをわかりやすくするために、頼まれていたライブのために書き下ろした曲についても、事務所経由で音也に送ることにした。
 音楽の話を一緒にしてしまえば、どうしたって彼との距離は近くなる。
 最初のうちは音也から「元気してる?」という短いメッセージがくることもあったけれど、返事をしないことで段々と彼からの連絡が途絶えはじめたと思った頃、急に音也から「今夜、寮のいつものところで待ってるから」というメッセージが入ってきた。
 いつも通り返事をするつもりは春歌にはなかったけれど、どうして急に今夜、いつもの場所で、と具体的な時間と場所を指定してきたのだろう。
 会わない方が正しくて、本音を言わない方が楽なのだといつの間にかそう思い込んでいたけれど、彼からのこのメッセージを見た時にこれを逃したらもう何も話せなくなるんじゃないかとそんな予感がした。
 きっと最後になるのかもしれないなんて、そうした終わりの予感を引きずりながら(会いにいこう)とメッセージに返事はしなくても待っているであろう彼の元へとその日、春歌は急いだ。

 返事はこなくても、とりあえず夜遅くにいつも待ち合わせしていた場所へと音也はやはりきてしまった。
 きっと誰もこないはずなのに、何してるんだろう、俺ってバカだなあってそればかりを思う。
 あと数ヶ月すればトキヤが部屋に帰ってくるなと思った。そうしたら、トキヤとやりとりが増えて、今日までのくだらないことすべてを忘れたりできるのかなとかそんなことを考えた。
 今はみんなそれぞれ忙しい。忙しい中、アイドルとしての活動は続いていて、充実しているのに音也はたまらなく孤独を感じていた。
(うわぁ俺、泣いてる……?)
 庭園近くに流れる川から聞こえるせせらぎは心地よかったけれど、覗き込むと涙をぼろぼろとこぼしはじめている自分が水面に映って最悪だと思った。

 だって好きだったんだ。
 たまらなく、彼女のことが大好きだった。
 きっと、いつか終わってしまう恋になってるって途中からわかってた。俺は七海のことが大好きで、七海も、もしかしたら俺のことを好きでいてくれたかもしれないのに、どうしたらいいのかわかんなかった。

 ぐしゃぐしゃになっていく自分の表情がやばいと音也はなんか拭くものはないかと肩から下げていたボディバックに手を突っ込むと、あの時のハンカチが出てきた。
 猫のモチーフのハンカチだ。
 ――借りてたハンカチに猫の模様入ってたからさ、俺は猫を見ると七海のことを思い出すんだ。
 あの時このハンカチを選んだ理由を話した自分のことをはっきりと思い出した。バカだなあ、俺。どうして俺、いつもこのハンカチを持ってたんだろう。
 もう一度あのハンカチを渡した日に巻き戻して、あの日にちゃんと「好きだから付き合って欲しい」って告白しといたらよかったんじゃないのかなと、そう思った。
「一十木くん」
 もう最悪~!! と目にハンカチを乱雑に当ててる音也の肩をとんとんと叩く人がいる。
 声だけを聞けば、それが誰なのかなんてすぐに音也はわかってしまって、慌てて振り向いた。
「だぁっ? ああ? 七海っ」
「ご、ごめんね、くるの遅れちゃって……あとずっと連絡できてなくて、ごめんなさい……」
「あ……あぁ」
 正直こないんだろうと思ってたのに、ここにきてくれたことが不思議だった。
 ちょっと雰囲気が変わったかも、と思った。たった数ヶ月会わないだけだったのに、と思ったけれど同時にほとんどの時間を費やして彼女と会っていたんだということにも気づいてしまって苦しくなった。
「七海は……元気してた?」
「うん。たまに落ち込んだりもするけど、元気だよ」
 たまに落ち込んだりして、という言葉を聞いて、自分に抱きついてくれていた彼女のことを思い出してしまった。
 もおって怒ったり、泣いたりして、うまく曲が書けませんって落ち込む彼女を励ましつづける自分はもう、彼女には必要がないんだってわかるのに。
「一十木くんは?」
「う~ん、ぼちぼちってとこ。というか七海なんで返事くれなかったのさー……」
 ストレートに聞きたいことを聞けてしまうのは、自分にとっていい性格なのか悪いところなのかわからないなと思うことがあったけれど、こういう時に聞けてしまうというのは悪くないかもしれないと音也は感じた。
「ええっ。だって電話で、違う女の子を好きになるって言われたから……」
「ん?」
 そういえばそんな話はしたけど、最後の方はあまり覚えてないんだよな、とどんな会話をしたっけかなと音也は思い出そうとするけれど思い出せない。
「じゃあもう、これからは連絡取らないほうがいいかな、って聞いたら、うんって一十木くんが言ったんだよ」
「……? え、俺がそんなこと言ったの」
「なのに、次の日は何もなかったかのようにメッセージがきてびっくりしました」
「……ごめん、俺、その日酔っててどんなやりとりしたのか、マジであんまり覚えてないんだよね」
「そうなの? そうなんだ。わたしも酔ってたのかな、忘れちゃったのかなーって思ってたので」
 なんとなくわかってたよ、と春歌が続けるのを見て、わかってたんならなんで、と音也は思った。
 何もなかったかのように送ったメッセージに、何もなかったかのように返事してくれたらよかったじゃんと自分のことは一気に棚に上げてそんなことを身勝手に思ってしまった。
 そしたら、こんなことになんかならなかったかもしれないのに、ってそれを思ったら抑え気味になってた涙がぶわっと溢れだした。
「いいいい、一十木くん、泣いて……」
「泣いてないっ。泣いてないってば」
 これ使ってください、と春歌が差し出したハンカチを見て音也はますます涙が出た。
「七海、そのハンカチ使ってくれてたんだ……」
「え? うん。一十木くんがくれたから」
 確かに、俺があげたけどさ~、あげたけど、それを今俺に渡すのはなんか違うじゃん、って春歌から借りたハンカチと自分が持ってたハンカチを両手使いで目をぐしぐししながら座り込んで音也は泣いた。
 どれだけ目にハンカチを当てても止まらない涙も、時間がそれなりに経てば枯れ果ててくる。
 そんな様子を静かに見守っていた春歌は、音也の背中をずっと擦りながら、「落ち着いてきた?」と優しい声をかけた。
「すこし」
 返事をしてすぐに、ずびっと、鼻をすする音が響いて恥ずかしくなって、音也はまたうつむく。
「なんか七海、すっごい大人になった? 同い年なのにお姉さんに見える」
 よくわかんない感想を音也が述べると、よくわかんない感想をもらった春歌は、よくわからないなりに返事をする。
「最近わたしも先輩になったからかな。新しく所属になった新人作曲家のコの面倒、見てたりしますから」
「七海が先輩……」
「な、なに? そんな珍しい生き物を見るように見ないでください……」
「だってさー。七海、俺とふたりきりの時はえ~んってよく泣いてたじゃん、さっきの俺みたいにさ」
「え~んって泣いてないよ、その表現には誤解があるのではっ」
「じゃあ、うわ~ん?」
「泣き方の問題じゃなくて……もぉ~……」
 反論する気も失せた、というように呆れた表情をした春歌に気づいた音也は「わ、ごめん。怒らないでよ」と慌てて謝る。
「怒ってないよ、恥ずかしかっただけ。わたしの恥ずかしいところをたくさん知ってるのは一十木くんだけだから」
「俺だけなの? 彼氏にはえ~んって泣きついたりしないんだ?」
「しないよ。そんなことしてる暇あるなら作曲しろって怒られちゃうもの……」
 あまりにも自然に彼氏の存在を春歌が肯定したのを聞いて、音也はわぁ、と思った。
 彼氏のことを聞いたら「え、彼氏って誰ですか」って実は存在すらしていないって言ってくれるかもしれないと思い込んで聞いたのに、めちゃくちゃ存在しているという返事が返ってきて、どんよりと落ち込んだ。
「というか一十木くんなんで知って……あ、トモちゃん?」
 友千香から黙ってて、と言われたことをハッと思い出した音也は、さあ、という表情をしたけれど情報源は限られているのだろう、もお、と春歌は口を膨らませていた。
「付き合ってどれくらいなの?」
「もう一ヶ月は経つのかな……」
「七海から付き合いたいっていったの?」
「わたしからではないですけど……」
「じゃあ、付き合おうっていわれたの? なんでOKしたの?」
「一十木くん、あの、待って、質問が多くはないでしょうか」
「えっ! 聞きたいじゃんそんなの!」
「聞きたいの?」
「え」
 本当に聞きたいんですか、と春歌が悲しそうな表情をしながら確認してくることに対して音也は返事に困る。
 聞きたいけれど、本当は聞きたくない。興味はあったけれど、本当はそんなの聞きたくない。
「じゃあ最後の質問していい?」
「うん」
「七海は彼氏のこと好きなの?」
「……」
 付き合ってるんだから、もちろん好きって返ってくると思い込んで音也は聞いたのに、予想に反して春歌は押し黙ってしまった。
 だって俺は七海のことを好きか今でも聞かれたらすぐに大好きって答えられるのに、七海は今付き合ってる恋人のことをすぐに好きって言えないなんてなんかおかしくないか、と音也は勝手に苛々した。
 好きっていってくれたら、じゃあもう幸せになってよって言おうと思っていたけど、なんで好きって言わないんだろうって何も言わなくなる春歌のことを見つめる。
「好きになろう、としているところ、です……」
「何それ」
「だって好きか、どうか、と言われると、わからないというのが正直なところで」
「ええ~っ?」
「付き合ってるうちに好きになると言われて、そういうものなのかな、と」
「えぇ~……ええ~?」
「元々は一十木くんに他の女の子を好きになるって言われたのもあって……」
「俺のせいってこと?」
 記憶にはないような話をあらためて春歌から聞きつつ、一方でそんなことも言ってしまいそうだとぐぬぬ、と音也は何も言えないと唸った。
「だから落ち込んでたんです。連絡はとらない方がいいって思って……でも、一十木くんとの時間はやっぱり楽しかったから。その代わりにいっぱい仕事してたの」
 それで仕事を通じて距離を縮めあってしまったのがよく話題にあがっていた、春歌のことを度々けちょんけちょんにしていたあのプロデューサーというわけか、と音也は腑に落ちた。
 好きかどうか悩んでいるというのもよくわかる。今まで異性として意識しているというような話を春歌は一回もしたことがなかったのを覚えているからだ。
 だからこそ、気持ちがそこまで付き合うという行為自体に追いついていないんじゃないかというのが心配になって、自分自身のことも省みながら音也は素直な感想を並べていく。
「好きじゃないのに付き合うのって無理じゃない? 好きになれなかったらどうすんの?」
 だってキスすらできなかったもんなー、と音也は好意を寄せられてるとわかってる人からのキスすら受け入れることもできなかったことを思い出しながら尋ねる。
「いちおう、……だめだったら別れようって言われてますけど……」
「ふーん。キスとかしてるの?」
「一十木くん、最後の質問だっていったのにまた色々聞いてる」
 めちゃくちゃ素直に聞いちゃった、と流石にこの質問をしたことについては音也は素直に反省した。
「ごめん、ものすごく気になって聞いちゃった」
「してないよ、キスもそれ以上も」
 答えなくてもよかった質問に春歌が答えたのを聞いて、音也は、そっか、と頷いた。
「じゃあさ今、キスしたら。七海は本気で俺のこと好きになってくれたりしないかな」
 その話を聞いた春歌が音也のことをどうしてそんなことを言うの、と悲しい目で見た。
 したい、とも、したくないともわからない、ただ悲しい目をしている彼女に、「俺は七海とキスしたい」と音也はもう一度告げる。
 返事をしない春歌に、音也は手を伸ばして肩に触れた。
 ひさしぶりに彼女に触れられたことが嬉しかった。
 キスしたいっていったけれど、そういえば七海はキスは恋人としたいんだったと思い出して、じゃあキスの前に付き合わなくちゃとずっと口から出てこなかった言葉がするりするりと今になって飛び出していく。
「俺と付き合ってください」
「わ、わたし、今彼氏いるのでダメです」
 だよね? この答えであってるよね、となぜか確認するような仕草で自分を見る春歌に、音也も「うーんそうだね、正解」と合ってるよと頷いた。
「じゃあ彼氏と別れてください」
 わ、別れて……と春歌が戸惑ってるのを見て音也は笑いながら、そのまま春歌のことを抱きしめてから何度も耳元で囁いた。
「彼氏と別れて」
「それは……」
「別れて」
「どうしてそんなこと言うの」
「好きでもない人と付き合うくらいなら別れた方がいいよ」
「そんなのわかってるもん……」
 急に春歌から本音のような返事が戻ってきて音也は「お?」と驚いた。
「じゃあこれから毎日聞こうかな。七海が彼氏と別れられますよーにっていう暗示をかけるみたいにさ。彼氏と別れた?って」
「やめてください……」
「七海おつかれ~、別れた? みたいに聞いちゃおう」
「やめてってば」
「あははごめん、俺、最低だ」
 段々と怒っているのがわかる春歌の声色に、どうしようもないことが起きているのだなと音也はやっと理解できてきた気がした。
 グチャグチャだったプライベートが一気に吹き飛んでいったことで、ようやく迷いなくやりたいことがちゃんと見えてきた気もする。
「あ~、俺、今よりもっとアイドル、超頑張っちゃおうかな。なんかもりもりやる気出てきた」
 うん、と音也は確かめるように頷いた。
「七海にね、逃した男は大きかったなって後悔させちゃうくらい、もっとすっごくて、ビッグなアイドルになりたい」
 逃した魚のように自分のことを例える音也はいつの日か見た覚えのある満面の笑顔だった。その表情を見て、春歌は目をぱちくりさせている。
「それでね、いつまでも七海に覚えておいてもらうんだ。俺のことを見るたんびに俺のことが好きだったって気持ちを思い出して欲しい」
 それくらいはいいだろ、と抱き寄せて、耳元で無邪気に笑いかけると春歌は「どうして、そんなこと言うの……」と何度目かわからないそんな言葉を口にした。
「七海もさ、俺が逃した大好きな人はすっごい作曲家なんだっていつまでも思わせて欲しい。この人の作る曲を歌って、愛したかったんだっていつまでも俺に思わせてよ」
「一十木くん……」
「あれ? ん? でも曲は書いてもらってもいいのかな? それはいいよね、別に?」
「わたし、曲を書きます……。一十木くんが、嫌じゃなければ、だけど……」
「なんで嫌だなんて思うのさ。俺、七海の曲大好きだよ! 元気でるから」
「いっ……」
 一十木くん、といつものように呼ぼうとしていた春歌の唇を塞ぐ。
 そんなことを言うのは一十木くんだけかもしれない、なんて、いつの日にか言われたことをまた言われたら困っちゃう気がしたからだ。
 今までのよくわからない怖さから解放されて、どうでも良くなったからキスができたと思ったけれど、きっと素直になれただけなんだって音也はその瞬間、そう思うことにした。
 初めて触れた彼女の唇は、とっても柔らかかった。
 こんなに感情がこもっていて、悲しくて、辛くて、大好きだって思えるキスは俺の人生の中で最初で最後なのかもしれないなと音也は考える。
「キスはいやだっていったのに……」
 自分と同じようにぼろぼろと涙を溢れさせる春歌を見て、もっと早くにこうすればよかったな、と音也は思った。
 ダメと言われたおでこにも、首筋にも、わずかに見える鎖骨にも痕が残るようにわざとらしく強く強く口づけをした。
 誰が一番君のことを愛していたのか、それがわかるようにって、そんなことを考えながら。
「七海、大好きだよ。相手のこと、好きになれるといいね」
 最初の方は本当で、最後の方は思ってもない嘘だらけだったけれど、そう言ってあげる方がいいやつっぽいからそんな嘘だらけのことを音也は口にした。

Fin.

 

 

送信中です

×

※コメントは最大500文字、5回まで送信できます

送信中です送信しました!
Next Post Previous Post 君とひとつ屋根の下(後編)