#17 ただ、恋をした
一緒に踊ろうと手を伸ばしてくれた彼と手を繋ぐずっと前から、自分よりも大きな手をしている人だなと思っていた。
ドキドキしながら握ると、そんなドキドキすらも構わず一緒に握りしめてくれる。
一緒に眠る時に、こっちにおいでと手を伸ばして待ってくれている時がある。
臆病になる自分を、いつまでも待ってくれているそんな彼の仕草ひとつひとつが、好きだった。
手を握りしめ合うたびに、言いたいことが次から次へと溢れそうになるのにうまく伝えることができない。
そうしたことを繰り返していくうちに気持ちがいつの間にか、夜空を泳ぐようにどこかへいってしまう。
それでもいつか、この気持ちを伝えたいと思える日がくるのなら。
そんな小さな願いごとを胸に秘めながら、彼の鼓動とぬくもりと肌越しに感じながら春歌は音也の隣で小さな寝息を立てた。
◇
翌日は早朝からロケに出発することも含めて、早起きをして、二人で朝食を作った。
二週間も留守にするから冷蔵庫の中はできる限り空っぽにしたいという音也の要望を踏まえて二人で準備した朝食は想像していたよりも、盛りだくさんになってしまった。
それを二人で食べきれないかも、なんて言いながらもしっかりと食べ終えてから、一通りの支度を終えて、いつものように誰も通らない道から寮のホールにたどり着く。
そこで「行ってらっしゃい」と春歌から声をかけてもらって音也はロケ先に向かった。
二週間ほど地方で広告宣伝のためのグラビア撮影や、CM撮影をする予定だった。
ストーリー仕立てのCMになっていたから、まとめて期間をとって、一気に撮影してしまおうという一種のドラマ撮影にも似たスケジュールだ。
スタッフ側が用意したロケ用のバンに乗りこんで、途中で共演者となる他事務所の女優と合流した。
軽い挨拶をして、同じバンに乗り込んでから気さくに話しかけてくる共演者たちと会話をしながら、音也は春歌から言われた(キスしたいなら、違う女の子を好きになってキスしてください)と言われたことをなんとなく思い出していた。
今回CMで共演する人たちは、はじめての共演ではなくて過去何回も一緒の仕事をしている仲だ。
自分に好意を寄せてくれる人のことは音也は何となくわかるから覚えていたけれど、とくに今回音也と二人、メインで共演する予定の女優業をしている彼女はプライベートでの誘いも多かったし、チャンスがあればきっとそうした関係にすぐもつれこむこともできたのだと思う。
俺はこの人のことを好きになれるだろうか、なんていつもは思わないことを考えてしまった。
考える度に、キスはしたくない、本気で音也のことを好きになりたくない、なのにありとあらゆる姿を見せることを許してくれる春歌のことが頭に浮かんだ。
今のままでいい、って春歌が言うのなら、ゼロよりも今の関係がいい。会えなくなって、話すのも気まずくなって何もできなくなるくらいなら今の関係がいい。
その一方で、これ以上の関係を望めないことが辛いんだったら、春歌に言われたその通りに他の人のことを好きになってすべて忘れてしまえばこの胸にこびりつくようなやるせなさと手に入らないことへの焦りも消えるのだろうか、なんて考え込んでしまう。
忘れるための恋愛なんて器用なこと俺にできるのかな。
こんなことを、今まで考えたことなかったのに一体自分は何を考えているのだろうとそんな気持ちを振り払うようにしながら音也は車の揺れに身を任せた。
撮影は順調に進んで、夜には大体こうした現場では恒例化している飲み会が始まる。
貸し切りにした飲食店で、関係者しかいないから人の目も憚らないというのはこういうことをいうのだろうか。
アルコールも入れば、さらに自由になっていく。誰と誰がどこかに消えていくのをアルコールでダメになりかけてる目線で追いかける。
視界もぼんやりして、眠くなってきたなぁと夢現の気分になりながら、いつの間にか二人きりになって隣にいた件の女優からキスをされそうになって音也は「うわ、何」と素のような声が出てしまった。
え? という声で返されて、あぁ、キスするタイミングだった? と音也は自分自身に驚いた。
春歌を前にした時は、あれだけキスをしたかったのに、どうして今、できなかったんだろう。
アルコールも入って前後不覚状態だったし、身体もしっかり反応してるのに。
「キスいやだった?」
して欲しいな、という上目遣いで見られながら聞かれて答えずにいると、もう一度というように相手が近づいてくる。
「なんで俺と君がキスするの」
音也がこの場をごまかすようにおどけながら聞くと、彼女は至極不思議そうに首を傾げた。
「一十木くん、撮影中ずーっと落ち込んでるみたいだったから。いつもと違うっていうか」
「だからってキス?」
そんなくだらない理由で? とつい笑っていると、いいじゃんしようよ、と彼女も笑った。
自分が笑っている理由も知らずにつられて笑う彼女を見ていると、気持ちがさらに冷めてくる。
もしかしたら世の中にはいくつもの愛を持てる人たちがいて、どれも本物の愛だってことを証明できる人々がいるのかもしれない。
キスしてからお互いを意識したっていいじゃんって、そういう大雑把なところが自分にもあるって思っていたのに。
唐突にせりあがってくる吐き気に我慢できずに「ちょっとごめん」と相手を押しのけるようにしながら、音也はその場を離れた。
トイレに駆け込んで、出そうなものすべてを吐ききってから、先にホテルに戻るとスタッフたちに連絡をいれて、音也は一人でホテルに戻った。
今日泊まる部屋へと入ると、まだ残るアルコールに酔わされたまま、何となく手にしていたスマホで春歌に電話をかけた。
いつも気まぐれに電話をかけていて、その都度、仕事が詰まってなければ春歌はすぐ電話をとってくれた。
二人で最後に会った時のキスをするしないのやりとりを思い出すと、電話にでてくれるか心配だったけれど、彼女の声がすぐに電話口から聞こえてきて、音也はどこか、ほっとした。
「一十木くん?」
「そうだよ」
「どうしたの?」
「何もないけど電話しちゃった。七海はまたあのプロデューサーとやりあってる?」
朝食を一緒に取った時に、例のプロデューサーとまた仕事をしていると聞いていたのを思い出して音也は尋ねた。
「今日もダメ出しきました。でもね、リテイク出されてた曲をもう一度出したら、そっちは珍しく褒めてくれました」
「おー。めずらし」
嬉しそうな声色をしている、と音也は思った。元気ならよかった、と会話を続けながらも室内をぺたぺた歩く。
「一十木くんは? 撮影は順調ですか?」
「じゅんちょー。順調すぎて吐いた」
「え?」
ちょっとまっててね、と春歌に告げてから音也は履いていた靴と靴下も脱いで、着ていた上下の衣服も脱いで下着一枚になってから、部屋の真ん中にあるベッドに乗って大の字で仰向けになる。
耳に当てたままのスマートフォンの通話をスピーカーモードに変えて、自分の耳元においてから「準備できた」と春歌に話しかけた。
「吐いたって聞きましたけど。大丈夫?」
「うん、ぜーんぶ吐いたからもう平気。変なこと考えるのやめたよ」
「変なこと?」
「七海がさぁ、言ったじゃん。キスしたいなら、違う女の子を好きになってキスして、って」
「……言いましたけど」
「だから俺ね、違う女の子好きになろうと思って」
別にこんなことを話すつもりで、春歌に電話をかけたはずではなかったのに、なんでこんな話をしてるのだろうと音也はふわふわした気持ちのまま、どこかそれを考えているのに言葉は止まらない。
「そうなんだ」
少し突き放すような冷たい言葉が返ってきて、もしかして俺は七海の心を試しているのかと、それに気づいてしまって虚しくなる。
思っていたとしても言ってはいけないと思っていたことがつらつらとこんなふうに出てきてしまうのはなぜなのだろう。酔っているからなのか、思っていた以上に自分が傷ついていたからなのだろうか。
あぁ、でもダメだったんだよね。ダメだったんだよ。違う女の子を好きになるなんて、できなかった。
俺は恋がしたかったんじゃなくて、君にただ恋をしたんだよ。
だからきっとこれからも無理なのだと音也はあらためてそれを強く感じた。
今は電話だけで繋がって、息遣いだけが伝わってくる。
それだけでも七海のことをこんなに大好きだなんて思ってる俺に、他の女の子を好きになるなんて到底無理なのだ、と。
一方で七海はどうなのだろうとそんなことも考えた。
君は俺以外の誰かを好きになることを考えたりはしないのかな。
君は俺以外の誰かと恋をした方が幸せになれるんじゃないかな。
そんなことを考えるのに、俺以外の誰かと一緒にいる君のことを考えるなんてことすらできない。
そんな未来ならいらないって考えることすら拒否しているのに、キス一つできないことで俺はこんなにも絶望することが得意になっている。
彼女の寂しそうな声がどこか心地よくて、最低だなと思った。
その後どんな会話をしたのか音也は覚えていなかった。春歌の声があまりにも心地よくて、途中からほぼ眠っていたからかもしれない。
◇
残り数日となった撮影期間。キスを拒否して空気がおかしくなるかと思いきや、そうした擦れた関係には慣れているのか、共演者たちは皆、平常運転だった。
仕事で見せる姿はいつも通りで、それこそプロみたいな動きをしている人々を見ると音也は素直に(この業界こわ)と感じた。
晴れやかなところをファインダーが捉えて、嘘は絞ってぼやかしながら、美しい部分だけを切り取るようにシャッターが幾度となく降りる。
きっと、この美しい部分だけを液晶の向こう側から今まで自分は見ていて、そうしたものだけをアイドルになって、伝えていきたいなんて思っていたのかもしれない。
「うん、いい感じに撮影できたね。これならスケジュール通りに終われそうだ」
撮影監督が満足そうに言うのを聞いて、だったらもう帰りたいなんて思ってしまってやばいなと音也は感じた。
仕事自体はすごくいい内容だってわかってる。有名な企業のCMだったし、事務所からもこの仕事をやりきったら、もっと他のオファーが増えるって前向きな反応をたくさんもらった。
なのに、いくら仕事が充実してもプライベートがグチャグチャすぎて、もう嫌なんだよな、と音也は休憩時間にスマートフォンを弄びながら、春歌にメッセージアプリで連絡を取ってみる。
何のことはない、雑談をしようと思っただけだから「やっほー音也だよ」というそんな出だしから始まるゆるい一言だった。
そうしたメッセージを送ると、春歌はいつも「おつかれさまです!」と返事を返してくれた。
電話よりメッセージを送った方が反応が早いことがあるのは、彼女が普段から仕事ではそうしたアプリをメインに使ってるからというのを最近知った。
(返事こない~~~)
とはいえ仕事が忙しければ二、三時間返事がないことはザラだった。
今までなんとなく連絡してすぐに反応がなくても、いずれ返事が返ってくることを知ってたから気にしてなかったのに、この日から春歌からの反応は一切なくなった。
返事がない、その心当たり……
既読もつかないからブロックされてるのかなと音也は考えたけれど、ブロックされているという状況がどういうことなのかも音也はわからなかった。
電話もかけてみたけれど、繋がらないからキャンセルをした履歴が残っていくのを見て(これはしつこすぎるやばいやつの動きじゃん?)と途中から気づいて電話をするのはやめた。
以前にレンとご飯を食べにいった時、レンが着信で震えるスマートフォンを見ながら「レディからの連絡が一生終わらないんだけど」と呟いてたことをなんとなく思い出して、一生連絡してる側の立場になっていることに気づいてしまった。
CM撮影は順調に進んで見事に何もなく終わり、キス未遂で気まずくなってた共演者の女優からは打ち上げに行こうと何事もなかったかのように誘われた。
スケジュールが合えば行くね、なんて無難な返事をして、選んだお土産を春歌に渡さなきゃなぁ~、とあの日から連絡が一切取れない彼女のことを音也は考えた。
会いにいこうと思えば行けたはずなのに、行かなかったのは、会ってしまえばちゃんと終わりになるのがわかっていたから、会いにいくという気持ちになれなかったのもある。
あんなに会いたい、会いたいと願っていた人に会いにいけないなんて気持ちになることがあるんだな、と初めて知る気持ちばかりだ。
そもそも、今まで取れていた連絡がとれないだけであって、同じ事務所の人間なのだから、今彼女が何をしているのかということが全くわからないというわけではない。
シャイニング事務所所属の大人気作曲家は今日も大忙しだ。
彼女の名前をスタッフロールで見かけては、あの時話していた仕事が無事に終わったんだなぁ、なんてしみじみ感じた。
普段彼女が作らないようなハチロクのリズムで鳴るメロディを聞いて、俺だったらこの曲をどうやって歌うだろうなんて身勝手なことを考えたりもした。
単純に会わない間に彼女の音楽の趣味が変わったのかもしれないけれど、普段と違う曲調やリズムでできた音楽を聞くと、何かしらの影響を受けて出来た曲なのかなと、音楽からしか感じ取れない彼女の変化を感じ取ろうとしている自分に気づいて音也は何だか嫌気がさしてきた。
そうした日々を数ヶ月もの間、無為に過ごし続けると予定されていた単独ライブまでの時間が近づいていく。
彼女は以前にした約束通り、ライブ用の曲を書き下ろしてくれたけれど、事務所を介して送られてきたのは音源と旋律が書かれた楽譜だけで、いつものように一緒に歌って直すという作業をするつもりはなさそうだった。
そんな彼女の気配を霞のように吸って吐いて感じるという行為に勤しむのにも慣れた頃、例のプロデューサーとまたやりあってて、今回は意見を押し切ってたのよ、なんて近況を同じバラエティ番組と久しぶりに共演することになった友千香から音也はようやく聞くことができた。
「ま、でも、なんだかなんだで春歌のことかわいがってんのよね、あの人。だから付き合いはじめたんだろうし」
「うわあ大変そう。え? あ? 付き合ってる?」
久々の近況を必死に聞き取る中で、とんでもない爆弾がばら撒かれたことに気づく。
「あれ。やば。そっか、あんたたちの誰にも話してはいないのか……?」
これは言って良いことだったのか……? と友千香が表情を曇らせたのを見て、未解禁情報が流出したなと音也は察した。
「七海って彼氏できたの?」
「ま、そんなとこ。あたしから聞いたってのは内緒にしてよね」
春歌はそんな話しないだろうし、うっかり口を滑らせたのは本当に悪かったと思ってるんだから、と友千香からきつく口止めされて音也は「わかったよ」と勝手に情報流出されたことを恨めしく思った。
連絡が取れない理由はこれなのかなと音也は仕事終わりの帰り道、ひたすらにそのことばかりを考えながら事務所寮に向かって歩いた。
そりゃあ彼氏ができたら他の男とは連絡しなくなるよね。でもそんな急に彼氏ができて連絡が取れなくなるなんてことある? とこれまでの連絡がとれなくなった経緯を考えたら不可解だった。
おそらく、こうなるまでのきっかけがどこかにあって、原因は自分にあることは薄々感づいていたけれど正直な話、なんだかんだと離れ難そうにしていた彼女が自分から離れるきっかけは何だったのだろうと音也は思い返す。
事務所寮に着く頃には、色々と考えるより彼女に聞いた方が早いなと思った。
だからもう一度あの日と同じように「今夜、寮のいつものところで待ってるから」とメッセージをいれる。
いけません、って断られるのが関の山だな、と返事を期待していたのがバカだった。
返事はとくにこなかった。

たかさか
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