#甘い香り
マスターコース寮で暮らすシャイニング事務所のメンバーによっては、自主的に朝練を設けている人々もいる。
毎日習慣的に続けているメンバーもいれば、集中的にその期間だけ続けるといった人によって異なるトレーニング期間があった。
「ふわぁああ~」
大きなあくびを噛み殺しながら、ジャージ姿の音也はトレーニングルームまでゆったり歩く。
まだ眠いというのが傍目からでもわかりやすいその様子のまま、何度もあくびを音也は繰り返した。
(七海と手つないじゃった! やった! ってそのことばっかし考えてたら、眠れなくなって大変だった……)
はぁ……と寝不足の理由を音也は思い出しながら、首を回す。次に自分の掌を広げてジッと見る。
昨日二人で手を繋いで踊ったことも、ベンチに座って手を繋ぎながら暫く夜空を眺めたことも、彼女の指先はとても滑らかですべすべだってことも、色んな思い出が増えてそれが嬉しかった。
毎朝日課のジョギングに出かける前にトレーニングルームで、眠気覚ましのストレッチでもしてからいこうと考えてあくびを度々繰り返しながら、音也は廊下を歩いた。
トレーニングルーム近くまでくると、扉が少し開いていて、中からどこかで聞いたような音楽と聞き覚えのある声が飛んでくるのに音也は気づいた。
(なんだ? えっと、この声は翔かな?)
翔が毎日朝練をするために、このトレーニングルームに来ていることは色んな人が知っている。
音也も知っていたけれど、翔以外の他の人も声も聞こえる。
二人でいるならなぜかそこに割って入るのも、と考えてしまって音也はわずかに開いた扉からその様子を窺った。
「んだから、七海ッ。そこはもっと足使えって! 足に重心を置いて力使ってターンしてからステップ踏むんだよ、こうっ」
「……あし、ターンッ……ステップッ」
「そうそう。てかさ七海、お前はまず体幹から鍛えねえといきなり踊るなんて難しいと思うぞ?」
何事も基礎が大事だというのは、毎日鍛錬を積みつづけている翔がいうからこそより重みが増すのだろうと、なぜか春歌のことを指導している姿をこっそり見ながら音也は頷いた。
いきなり踊るのは難しいと言われて、春歌は「そうかもしれないです」と昨日のように疲れ果てた姿を見せながら笑った。
そしてすぐに翔から言われたことを思い出すようにして、足を上手く使って見覚えのあるステップを踏み始めた。
疲れているのか、力の入っていないままのその動きではもう自分の身体を支えることすら難しくて、身体が崩れ落ちそうになるのを見た瞬間、助けなきゃと音也は自分の体が動きそうになったけどすぐに止まった。
隣にいた翔が彼女の身体を支えていたからだ。
「だから、疲れてる時に踊っても意味ねえの。わかるか?」
「はい……」
「こんなほっそい身体してさ。お前、転んで手首とか捻って、曲作りできなくなっちまったらどーすんだよ」
翔が自然と春歌の手首を掴んだ。それからまたバランスを崩す春歌と支え合うためか、手を握りあったのが見えた。
あれ、と胸がざわざわするのを音也は感じた。
俺と七海は友達同士だ。七海と翔も友達同士だろう。だからああやって手を繋ぐってこともあるのかもしれない。あるのかな。手を繋いでいる二人の表情を見ると、少し照れくさそうにしているのがわかった。
翔なんて、音也と踊る時よりも、百倍くらい気を使っていそうなことがよくわかった。そばにいる女の子のことをお姫様みたいに守ろうとしている。
春歌のぎこちないダンスについて一見厳しく言及するのに、教えるその言葉からは愛情が伝わってくる。期待と心配と、ああ、翔は七海のことが好きなんだろうっていうそういう、色々だ。
昨日、春歌と二人きりでダンスをした時、こんな風に一緒に踊ってくれるのは俺とだけかもしれないなんて独占欲が満たされていたのに、たった一日でそれは幻想だったと目の前の現実が教えてくれる。
俺以外の男と一緒に踊らないでよと、歪んだ感情を今この場でぶちまけてしまいたいなんて、一瞬考えたけれど、そんなの意味ないよな、と音也は思い直す。
寂しいとか、悲しいとか、どうにもならない気持ち、みたいなものは昔から持ち合わせていたけれど、でもしようがないじゃんって諦めにも似たものが自分の腹底にいつの間にか横たわったように染み付いている。
今日はストレッチは諦めよう、と覗き込んでいた扉から目を離して、トレーニングルームに音也は背を向けた。
そのままジョギングに行くか、と目的を変えて寮の裏口から中庭に出ていつものコースを走ろうと気持ち早めに歩き出すと「音也じゃん、お~い」と背後から翔が名前を呼ぶのに気づいた。
もう七海とのやりとりは終わったのか、とドキドキして振り向いてから「翔、おはよう~」と音也が挨拶をすると、翔も「おうっ! おはよーー!」と元気よく挨拶を返した。
「お前、今から走りにいくんだよな? 俺様も一緒にいくっ!」
翔は音也のジョギングとタイミングがあえば、一緒に走ろうぜ! とよく声をかける。
「いつものコースぐるって回るだけだけど、それでいい?」
「オッケー! てかさ、聞いてくれよ、さっき朝練行ったらさ、トレーニングルームに七海がいてさ」
部屋間違えたんかなってびっくりしたぜー、と翔が笑うと音也はまったく知りませんでしたというように「なんで七海がいたの?」と理由を知りたいと聞いた。
「よくわからんけど、ダンスの練習してんだってさ。七海って俺たちのダンス練習の見学にはよく来てたけど、自分で踊ろうとしてるの見たことないじゃん」
「見たことない」
自主的に踊ろうとしているところは翔の言う通り見たことがなかったので音也も確かに、と同意する。
「だから、なんで? 仕事で必要なのか? って聞いたら、違いますって。急に踊ろうって誘われた時に、上手に踊れるようになるように特訓しておきたいんだってさ」
踊ろうって誘われるってそんなことあるかー? と翔が両手を自分の後頭部に乗せながら、音也はどう思う? と尋ねる。
翔に尋ねられた音也は、自分が急に踊ろうと誘ったことを意識しての話かもしれないと思うと、原因は俺だ、と思いながらも「どうだろうー」とごまかす。
「急に踊ろうなんて七海のことを誘えるのは音也くらいじゃね?」
俺の知ってる奴らの中で、七海にそんな誘いをするのはお前くらいなもんだよ、とばしばし急に背中を叩かれて、誘って踊ったのがもうバレたのかと音也は焦った。
いや待てよ、と音也の背中を叩きながら翔は那月も「僕と踊りませんか~」とか言いそうだよなーと那月にも容疑をかけはじめる。
それにトキヤも「私と踊りませんか」なんて膝ついて言いそうじゃん! と翔が叫ぶと音也も「わかるー!」と笑いながら頷いて二人で盛り上がった。
とにかく疑わしき人々はたくさんいる、と急に踊りたいと特訓をしはじめる春歌の心境の変化について翔は考えているようだった。
「まー、なんでもいいじゃん、踊るのって楽しいし。七海と踊れるなら俺は大歓迎」
「お前のそういう素直なところがうらやましいぜ……」
「なんで? 翔も七海と踊れるなら踊りたいよね?」
だってむちゃくちゃ七海にダンスのこと教えてたじゃん、と今日こっそり見ていたことを言いそうになって、やば、と音也は口を噤む。
おそらく見ていたことを翔に伝えたら、すごく恥ずかしがって照れちゃって、怒られそうだなと思ったからだ。
「だってお前、一緒に踊るって……手ぇ繋いだりもするし……」
翔が自分の掌を見ているのを見て、自分とのデジャヴ感があって、音也はなぜかいたたまれなくなる。
そりゃ、七海とダンスができて手を繋いじゃったらそうなっちゃうよなあ、と共感と一緒に複雑な感情がまぜこぜになっていく。
「てかさー……俺しばらくぶりに七海と話したけど、なんか七海……変わった、よな?」
どこがどう変わったっていうのはうまくいえないけど、と翔がそれでも何かが変わったのは確かなんだよなーと音也を見ながら悩ましそうにする。
「なんかすげーいい匂いしたしさ……」
「え? いきなり何? 翔、変態なの?」
つい、うわ~という目つきで翔のことを音也は見てしまった。
春歌と踊った時、風に甘い香りが纏って鼻をくすぐってきたのを音也は覚えている。色んな自然の匂いが混じり合う中で、唯一ドキドキさせられる匂いだった。
あのまま嗅ぎ続けていたら、とんでもなく惑わされそうな、男としての本能がムクムクと湧き上がって我慢しきれなくなってしまいそうで正直困った。
やはりあれは春歌の匂いだったのだろうとそのことを音也は考えて、眠れない原因になったことも思い出す。
そうした気持ちはあったから、翔に激しく同意したいところだったけれど、なんとなく今回は一方的に翔のことを変態にしておこうと音也は考えた。
そんな音也の反応を見て、ついうっかり声にでていたということに気づいた翔が気づいたように激しく動揺する。
「違う!! ただの……ただの感想だーーー!」
断じて変態ではない! と動揺しながらも怒る翔に「はいはーい」と音也は軽く頷いてから、翔がひっかかっているところはよくわかるよ~と七海が変わったという話題に飛び乗った。
「俺は一十木くんは変わらないね、って七海に言われたけどね……」
前に話していた時に、一十木くんは変わらないね、と春歌に言われたことをすぐに思い出して音也はそんなことを口にした。
変わらないと言われたことがどこか引っかかり続けているのか、そんなことないよね、と普段からそばにいることが多い翔にも確認したくなってしまう。
「音也も変わったと思うぜ、だいぶ筋肉ついたし、体力も前よりすごいもんな」
歩きながらでも器用に翔が手を伸ばして、音也の体に触れていく。このあたりとか、ここもそうだし、こっちもすげー! あと首も結構鍛えただろ? と俺は知ってるぜ、だから心配すんなと笑った。
そうして自分の身体に触れながら励ましてくれた翔に向けて、ニコニコしながら音也はさらっと述べた。
「翔は俺の身体に興味あるよね~」
「お前、言い方がよろしくない。その言い方どうなんだ」
「七海も俺の身体に興味持ってくれないかな~」
ブフォと翔がたまらなくなって、咳込みはじめるのを見て、音也が「え?」というように足を止めた。
「お前なんつーこと言って……」
「だって身体鍛えて、七海にかっこいいですって言われたら嬉しくない⁉ 嬉しいよね! うん! 俺は嬉しい」
「あーーーもうお前一人で自己完結すんな! あと顔が近いから離れろ!」
同意を求めるべく距離感なく近づいてくる音也のことを、いつものように翔が腕を使って勢いよく引き剥がすと音也も慣れた様子で引き剥がされながら「とっとと、ごめん」と謝った。
「そうだ、ダンスのときにかけてた七海の曲、よかったんだよなぁ……昨日の夜にすぐに書いたっていってたけど、なんか楽しそうな曲だし、音源くれっていっときゃよかった」
すっかり忘れてた、と翔が残念そうに言うのを見て、え、なんだって、と先程引き剥がされたばかりなのにまたぐいぐいと音也は翔との距離を再び詰める。
「七海の曲、どんな⁉ 聞きたい聞きたい」
確かに曲が流れているのは聞こえていたけれど、途中から聞こえなくなっていたことを音也は思い出した。
「どんな、て。まだ主旋律だけぽかったけど、こんなだよ」
聞きたいなんていうリクエストをいきなりされて翔は、ええと、と戸惑いながらも今日聞いたばかりの曲を大体こんな感じと鼻歌だけで教えてくれる。
「あぁ!」
翔の鼻歌を聞いて、その正体がわかって音也は笑った。
昨日ダンスをするのにテキトーに考えて、音也が鼻歌にしていたメロディがそのまま生かされた曲になっている。
まさかあの時の旋律を覚えていてくれて、ダンスのための曲として書いてくれたんだとしたら、気まぐれのダンスからはじまって音楽に繋がったみたいで音也はたまらなく興奮した。
昨日の楽しかったことを思い出すと、どんどん嬉しく楽しくなってきて、翔と話せたこともそうだし、今日感じていたモヤモヤぜんぶが吹っ飛んでいく気分になった。
「よ~~し。元気になってきたっ。翔、早く走ろう!」
「ななななんだ? お前、急に走り出すなーっ!」
ジョギングをするための向かっていた寮の裏口まで距離があったのにそこへむけて一気に走り出す音也に驚いた翔は「なんなんだ!」と叫びながらも走り出す音也に同じく走ってついていった。

たかさか
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